カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch

子犬もパン屑を食べます

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父

 イエスのご降誕祭と新年のお慶びを申し上げます。今年は戌年です。

 聖書には犬という言葉は全部で54回登場します。そのうち45回は旧約聖書に、9回は新約聖書に出てきます。

 聖書の世界では、一般的に犬というのは、あまり良いイメージの動物ではありません。今日のように人間の手助けをする忠実な動物というよりも、むしろ野良犬や山犬のような汚く、危険な動物のようです。犬や豚は、モーセの律法の下では汚れた動物とされていました(レビ1127)。そのため律法の下で生きるユダヤ人にとっては、汚れを意味する印象のよくない動物たちです。箴言2611節に「犬が自分の吐いた物に戻ってくるように、愚かな者は自分の愚かさを繰り返す」とあります。古代において、犬は好んで汚物とまみれる動物とみなされていました。下劣な人がかたくなに悪業を続け、愚かな人が愚かさに安住することを告発するためにしばしば引用されます。Ⅱペトロ2章には、救いの道を受け入れた後、再びそれを捨ててしまった人々を非難するために、このことわざが引用されています。

 マタイ1521節以下のところで、カナン(異邦人)の女が現れ、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びます。しかし、それに対しイエスは一言もお答えにならず、そのうえ、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになります。しかし女はイエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と願います。イエスが「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになると、女は「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。

 パンは神の救いの恵みを、子供は選民イスラエルを、子犬は異邦人を指しています。まず子どもが食べるべきだ。それはお言葉どおりです。しかし子どもが食べ飽き、パン屑を落とし始めたら、それを子犬が食べてはいけないのだろうか、と女は言いたいのです。子犬は愛玩用に飼われるかわいい犬で、イエスは異邦人の娘を表すのに子犬という言葉を用いておられます。家庭用のかわいい子犬、すなわち家の中で飼われている子犬です。それで、食卓から落ちるパン屑は、愛されているペットなら当然食べてもいいではないかと言いたかったのです。子どものパンを与えるという言葉を発展させて、食卓を囲む宴会という光景、メシアの救いを宴会にたとえたのです。彼女は、このメシア的宴会のパンはむろん選民イスラエルにまず十分に与えられるべきだということを認めます。しかし「主よ、お助けください」と叫んでいる自分のような異邦人は、宴会の主人や客人でなくても、飼い犬くらいの位置は認められるのではないかと言いたいのです。メシアのパンが子どもに多すぎて、食卓からこぼれるほど豊かであるとの信仰です。子犬ぐらい十分養えるだけの、こぼれるほど豊かな恵みをお持ちだというのです。メシアは今、子犬のいる異邦の地まで来ておられるということです。メシアの恵み(イエスの十字架の贖い)は、全世界、全民族、全国民にあふれて注がれています。私たちも洗礼、堅信、聖体の恵みによって、イエスの救いのあふれる豊かさに与っています。私たちもイエスに愛され、イエスと共に、今年も信仰の道を歩んで行きましょう。子犬である私たちも、イエスからたくさんの恵みをいただけるのです。


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# by shukugawachurch | 2018-01-01 00:00

クリスマスへの心の準備

                                                       
コーナン・ミシェル 神父 

 123日から待降節に入ります。全世界のキリスト者の一人として幼子を迎えるために心の準備を始めましょう。待降節第1主日の祈願の中に、クリスマスに向かう準備のヒントが与えられています。

 「希望の光を注いでくださる神よ、待降節の歩みを始める私たちの心の目を開いてください。日々の生活の中で、あなたが望んでおられることを見極め、主キリストに従って生きることができますように」(集会祈願)。待降節は神さまが知らせて下さる出来事を思いめぐらす期間です。

 私の一番心に残るクリスマスは、1944年、戦争の時でした!お父さんは戦地に出かけ不在でした。10歳の私は6歳の妹と一緒に、お母さんに連れられ、真夜中のごミサに与りました。3人しっかり腕をくんで、敵に見つからないように懐中電灯を持たずに、30分ほど離れた教会へ行きました。お母さんは敵に光を見られたら殺されるかもしれないと思っていたからです。お聖堂は暖かく、クリスマスの聖歌は参加者の心を慰めてくれました!お父さんが生きているかどうかさえわからない私たちの不安は拭ぬぐわれ、迎え入れられたような気持ちになりました。そして、赤ちゃんのイエス様の誕生をたたえる大きな家族の一人になって、聖歌を歌ったのです。

 帰ってくると、ツリーの下にPère Noël(フランス語でサンタクロースの意)の思いがけないプレゼントがありました(戦争中なのに)。新しい下着とこの一年食べることのできなかった一個のオレンジです。(フランスでは冬のオレンジはなかなか手に入らないものでした。)お父さんが無事に早く戻りますようにと祈りながら眠ってしまいました。不思議なことに、赤ちゃんイエス様の誕生で、神さまの愛に包まれた、最高のクリスマスだったのです!

 現在、クリスマスはお菓子屋さんの喜ぶ時期ですし、サンタクロースからのプレゼントが当たり前のように子どもから期待されていますが、それが全てではないことを私たちは、忘れないようにしましょう。

 イエス様がお生まれになった状況は決して恵まれてはいませんでしたが、マリアさまとヨセフさまの愛に包まれて、たとえ洞窟の中でも、不思議なおごそかさ、静けさ、そして、聖なる温かさに満ち溢れていたと思われます。神さまのみ業ですね。何が人を生かすのでしょうか?赤ちゃんイエス様が全ての人の救いのためにお生まれになったことが意味するもの、それは、まことの命に生きることへの招きです。その信仰を表しても良い時期ではないでしょうか?子どものためのプレゼントも忘れずに、友達を誘ってみたりして、思いやりの輪を広げてお祝いしましょう。

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# by shukugawachurch | 2017-12-01 00:00
                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父

 山の木々の緑もいつしか紅葉し、秋も深まってまいりました。寒風に吹かれて落葉する姿を見ていると、なんとなく寂しさを感じます。その姿の中に、自然界は私たち人間に「あなたもいつの日か落葉(死)する時があるのですよ」、「心して人生を大切に生きなさい」と呼びかけているように感じます。

 教会は11月を死者の月として、私たちの親、兄弟、姉妹、夫、妻、子ども、恩人、友人など、亡くなった方々のことを思い起こし、死者のために祈りを捧げるとともに、自分の終末(死)をも黙想するよう呼びかけています。

 人は死ねば体は土に還り、霊魂は一生の善悪について神に裁かれるのです。ヘブライ書に「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ 9・27)と書かれています。人は皆、キリストの十字架の贖いによって救われ、天国に招かれています。しかし神は人を裁き、ある人には天国の幸福を与えますが、不幸にして神の恵みをたくさん受けながらも、この世の欲に負け、神の心と全く反対の生涯を歩み、改心することなく死んだ人は天国には入れないのです。

 神の恵みと神との一致を保ちながらも、完全に心が清められないまま死ぬ人は、永遠の救いを保証されているものの、死後、天国の喜びに与るために必要な聖性を得るため、ある浄化の苦しみを受けなければなりません。これを教会は煉獄と呼んでいます。

 煉獄の教えは、15世紀に開かれたフィレンツェ公会議と16世紀のトリエント公会議で表明されました。「その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」(1コリント 3・15)と聖書に基づいています。

 煉獄の教えは旧約聖書のユダ・マカバイ記にも記されています。「死者が罪から解かれるよう彼らのために贖いのいけにえを献げたのである」(2マカバイ 12・45)とあります。教会は当初から死者の記念を重んじ、死者のために祈り、特に感謝の祭儀のいけにえを献げていました。それは死者が清められ、神の至福直観に至ることができるためです。私たち地上に生きている者は、煉獄の霊魂がいち早く天国に旅立てるために、施し、犠牲、愛の業、免償、償いの業を捧げるよう努めねばなりません。私たちの祈りや犠牲によって天国にあげられた人々は、天国から私たちのために恵みを取り次いでくださることでしょう。

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# by shukugawachurch | 2017-11-01 00:00
                                                       
サック神父様へのインタビュー

 611日に夙川教会の助任司祭として着任されたサック神父様にお話しを伺いました。

〈お名前は?〉

 私は、洗礼者ヨハネ グエン・シン・サックです。私の霊名は自分で選んだのではなく、祖父がつけてくれました。幼児洗礼を受けた一族の男の子は皆、霊名は洗礼者ヨハネです。

〈お生まれは?〉

 19841010日、ベトナムのハティン省ヴィン教区の田舎で生まれました。力強い信仰を持つ地域です。出身小教区は信者数が約58千人で、小教区の召命は司祭が25人、神学生が40人、シスターが130人です。ヴィン教区の信者数は名簿上54万人で、教区の召命は司祭が288人、神学生210人、神学生志願者450人で、シスターは数えられないくらい大勢です。

〈ご家族は?〉

 両親と子ども7人の9人家族で、何代も前からのカトリック信者です。私は7人きょうだいのいちばん上で、妹が2人、弟が4人います。妹の一人は結婚し、もう一人は東京のイエスのカリタス修道女会にいます。弟の一人は大阪教区の神学生、残りの3人は学生です。末の弟は12歳です。

〈召し出しを感じたのは?〉

 私がまだ中学2年生の頃、叔父が田舎へ帰って来て、教会で初ミサを捧げました。その時、ワクワクした気持ちになり、奉献生活に憧れました。一生を神様に捧げたいと思い始めました。しかし、自分が神様に選ばれるのだろうかと心配でした。毎年、夏休みには親戚が田舎に帰って来て、修道服を着てミサに与ります。その姿を見て、とても素敵だと感じました。自分も高校を卒業して神学校へ進学し、一日だけでも修道服を着てみたいと思いました。小さな夢でしたが、その夢はいつも私の心の中にあり、将来は神父になって奉仕したいと思っていました。

〈司祭になるまでの道〉

 たくさんあるのですが一つ、皆様に紹介したいです。

 幼児洗礼を受けた私は、カトリックの家庭で育ったので、自然と信仰生活が体に染みついていました。私が200510月にベトナムから一人で来日した時は、何もわからず、心細く、恐れでいっぱいでした。しかも入学した学校はカトリックとは違う宗教でしたので、さらに驚きと不安の毎日でした。その学校でも毎日祈りがありました。私はこっそり指を折りながらロザリオの祈りをしていました。違う宗教の中で祈り続けなければならないという苦しみの中で、いつかはカトリック教会に行けるよう、あきらめずに祈り、絶えず神に信頼し、委ねました。祈りによって、奥深いところから神秘的な力がもたらされ、無から有へ、神が人を通して、私の思いを希望へと導いてくださったと気づきました。

 これからもそのような体験を語り合い、皆さんと神様の素晴らしい業を分かち合いたいと思います。

〈司祭としてモットー〉

 司祭は神の国の建設のため、また神様と人との仲介者として常に生き、福音の証となるべく努めます。また、神様と人間の架け橋として相応しく生き、生涯努力しなければなりません。私は本当に小さくて弱い人間ですが、神様のみ手に委ね、すべてをお捧げ致します。神様に「主よ、あなたの僕として働かせてください。一日だけでも司祭職を生きることができたら、いつみ国に行っても私は幸せです」と日々祈り続けます。そして司祭として秘跡を授け、悲しい時も嬉しい時も一緒に分かち合い、理解し合います。司祭は神様の愛をもって生きることが大切だと思いまもって生きることが大切だと思います。人々が司祭を通して、神様の愛を感じられますように。

〈夙川教会の信徒に一言〉

 神父様方と夙川教会の皆様の暖かいお心に、心から感謝申し上げます。

 私の司祭叙階式で選んだ福音の言葉は『彼らのために、わたしは自分自身をささげます』(ヨハネ1719節)でした。だから、一生を通して、日本の教会、また大阪教区、特に夙川教会の皆様のために毎日祈り、秘跡を行うこと、またミサを捧げること、そして皆様とともに分かち合うことができたらとても幸せです。私は神様と皆様の僕だから特に秘跡を通して使ってくださったら嬉しいです。

 夙川教会の皆様一人ひとりの上に神様の恵みが与えられますように祈ります。どうか私が良い僕になれますように、私のために皆様、祈ってください。ありがとうございます。


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# by shukugawachurch | 2017-10-01 00:00

ご聖体訪問

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父

 カトリック教会の聖堂に入ると、かならず赤い聖体ランプが灯っています。プロテスタント教会には十字架はありますが、聖体ランプはありません。ヨーロッパの教会を見学に行き、その教会がカトリック教会かそうでないかを識別するしるしとして、聖体ランプが灯っているか、いないかでわかります。

私たちはミサ聖祭の中で、パンとぶどう酒がキリストの体と血に変化したご聖体をいただきます。残ったご聖体は聖櫃におさめられます。

 日曜日にミサに来られなかった人も、平日聖堂に入り、ご聖体の中におられるキリスト、死を過越すぎこして復活されたキリストに親しく祈りを捧げることができるのです。

人類はアダムとエバの原罪によって悪魔に従うものになり、成聖の恩恵を失ったのです。しかし神は人類を悪魔の手から解放するため、神の子キリストを人類に送ってくださり、私たちと連帯し、自らの生命を捧げ、十字架上の死によって人類の罪を贖い、再び神の子となる恩恵の恵みをもたらしてくださったのです。神の御子キリストの十字架上の死は、御父に対する従順を全うし、人類の罪を帳消し、私たちは神のいのちに与り、永遠の生命に招かれたのです。

 新約はこの十字架の犠牲によって成り立ち、この十字架の功徳によって救われたのです。この十字架は救いと愛のシンボルです。そのうえ、キリストはご聖体にまでへりくだり、私たちの霊的な心の糧として聖体にとどまり、世の終わりまで私たちのため、目に見える形で地上にとどまってくださいます。私たちはこれほどまで愛されているのです。その愛に答えるため、しばしばご聖体訪問をすることが勧められます。ご聖体訪問し、礼拝と賛美、感謝をし、罪の赦しと償いをし、神の恵みを願って祈る習慣をつけましょう。

 教会に来られない高齢者や病人は、司祭がご聖体を奉持しますので、遠慮なくおっしゃってください。当教会では毎月第一木曜日の午後三時半より聖体賛美式を行っています。


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# by shukugawachurch | 2017-09-01 00:00