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カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch

司祭叙階55周年を迎えて

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父
 私は今月20日、司祭叙階55周年を迎えます。私は先月初旬、ガラシア病院に検査入院しました。食物がスムーズに腸に至らず、その原因を調べてもらいました。20年前、胃がんの全摘手術をし、その時、食道と小腸を縫合したところが細くなっているのではないかと、胃カメラを飲みました。そこは問題なく、何度も腹部手術を受けているため、腸の癒着があり、5年前に腸閉塞を起こしてバイパス手術を受けていることも影響して、トラブルが起こることがあるので、疲れすぎないように働き方を変えていくこと。ゆっくりよく噛んで食べることしか解決する道がないことがわかりました。がんの転移でなかったことにホッとしています。
 思えば、司祭叙階50年の時は、阪大病院に入院(すい臓がんの手術)していました。その時、私は数年以内に天に召されると思っていましたが、術後5年生かさせてもらったのです。これはひとえに神の恵みと、多くの方々のお祈りの賜物だと感謝しています。
 私が司祭に叙階された時、ある神父さんが「司祭になることは難しいが、司祭であり続けることはもっと難しい」とおっしゃった言葉を思い出します。今になって、その言葉の重みをひしひしと感じます。過去何度か、司祭を辞めようかと思ったこともありました。イエスは弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言われました。弟子たちも何度か罪を犯したことがありました。私も弱い罪深い存在ですが、多くの皆さんの祈りに支えられて、今日まで司祭職を続けることができ、深く感謝しています。
 思い起こせば、司祭生活の中でいろいろな喜びと悲しみ、苦しみ等が走馬灯のように思い出されます。
 私は6年前、ポーランドとハンガリーに巡礼に行きました。その時、思いがけない出会いを体験しました。恩師ネメシェギ神父(イエズス会)にお会いできたのです。長年、日本の神学校で働かれ、高齢のため引退してハンガリーに帰国しておられたのです。連絡がとれ、共同司式でミサをする予定でした。当日、ブタベストの聖マチャーシュ聖堂の地下聖堂に来てくださったのですが、恩師は足が悪く、共同司式をすることができません。「今日は神父さまのごミサに与ります」と言われ、巡礼者の信徒席に着かれました。本当は恩師の説教が聴けるのを楽しみにしていました。恩師の前で私が説教することになり、緊張しました。恩師は私の拙い話を聴いてくださいました。私は恩師の謙虚さに頭が下がり、思わず涙が出ました。恩師はその時、「教え子のミサに与ることができたのは、本当に私の喜びです」とおっしゃってくださいました。恩師はその時、90歳を超えておられました。先日、恩師が危篤だとの知らせを聞き、私は恩師に感謝と安らかな眠りをお祈りしました。私は恩師の授業を受けることができたことにより、キリスト教をある程度、理解することができたのです。私は55年の間にたくさんの人々と出会い、喜びも悲しみも共にでき、司祭であり続けられたことを心から感謝します。残された人生を少しでも長生きし、すべてを主に委ねて、一日一日を大切に生きていこうと思います。


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# by shukugawachurch | 2020-03-01 00:00
                                                       
グエン・シン・サック 神父

 今回は、カトリック儀式書から「ゆるしの秘跡」を参照し、紹介します。

 個人の生活においてと共同体の生活において、罪によって受ける傷には様々な違いがあるのと同様に、回心によってもたらされるいやしもまた多様である。大罪によって神の愛の交わりから離れた人は、ゆるしの秘跡を通して、失ったいのちを取りもどす。小罪に陥り、日々自分の弱さを体験する人は、ゆるしの秘跡に繰り返しあずかることによって、神の子らの豊かな自由に達する力を得る。
① ゆるしの秘跡がもたらす救いの恵みに浴するためには、いつくしみ深い神が定めてくださったとおり、内的な反省(心の糾明)をした上で、覚えているすべての、また個々の大罪を、あわれみ深い神の定めにより司祭に告白しなければならない。
② さらに小罪だけであっても、この秘跡にたびたび熱心にあずかることは非常に有益である。それは、単なる儀式の反復でも一種の心理的訓練でもなく、イエス・キリストの死をわたしたちの身に帯びることによって、ますますイエスのいのちがわたしたちのうちに現れるように、絶えず洗礼の恵みの完成に励むことだからである。回心者は、小罪の告白を通して心を改めるとともに、より深くキリストに似るよう、また聖霊の声により注意深く従うよう、特に努めなければならない。
 この救いの秘跡が、キリスト信者の生活全般に根をおろし、神と兄弟への奉仕に駆り立てるものとなる時、その真価が発揮されるであろう。教会はゆるしの秘跡を執り行うことによって自らの信仰を宣言し、キリストがわたしたちを解放して自由を与えてくださったことを神に感謝し、キリストと出会う日を待望しつつ、自己の生活を霊による奉献として神の賛美のためにささげる。

 ゆるしの秘跡は非常に有益な秘跡ですから、皆さんもぜひ、この秘跡の恵みに与ってください。


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# by shukugawachurch | 2020-02-01 00:00

主イエスのご公現

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父
 主イエスのご公現は、神が人となって、その栄光をユダヤ人のみならず全人類に現されたこと、イエスこそが全人類の救い主であることを記念する祭日です。また、救い主の招きに応じて、私たちが信仰と希望をもって父である神のもとへ行こうという決意を新たにする日です。
 パウロはエフェソの教会への手紙の中で、神から遠い存在であった異邦の民がキリストの光を受けて近いものとなり、聖霊によって神の住まいとなると説いています。(エフェソ2・22参照)
 今や向かうべき中心が全世界に与えられ、すべてのものが頭かしらであるキリストを中心に、一つに集められているのです。
 馬小屋に当然いるはずの人々が、不思議にもイエスを拝んでいないのです。反対に、いなくてもいいはずの異邦人(ユダヤ人から見れば外国人)の学者たちがイエスを拝んでいるのです。
 当時の律法学者は、聖書(旧約)に書かれている、救い主がいつ、どこで誕生されるのか、頭ではよくわかっていたはずです。二千年にわたって人々が待ち望んでいた救い主がベトレヘムで生まれるはずだということをよく知っていたはずです。彼らのいたエルサレムから歩いて2時間ほどで行けるところに救い主が生まれるということを知りながらも、拝みに行かなかったのです。
 また、ユダヤ人の祭司たちもエルサレムの立派な神殿で、神に香を捧げながらも、神のみ子が小さな赤ちゃんになられたということを見過ごしていたのです。
 ヘロデ王は神殿を建て直すために甚大なお金を使っていながら、ベトレヘムでユダヤ人の王、救い主が生まれたことを知りながらも、自ら進んでベトレヘムに行かなかったばかりか、その救い主を殺そうとさえしたのです。
 僅かな羊飼いを除いて、ユダヤ人は誰も救い主を拝んでいないのです。このことは不思議なことです。しかし、それにも増して不思議なのは、異邦人である学者たちが、聖書のことを詳しく知りもしないで、東方でメシアが生まれたことを心の中でおぼろげに感じ、その招きに応えて、確かなことを知らないまま、何日もの長い旅に出発したことです。たぶん奥さんや友人からは反対されたことでしょう。にもかかわらず、知らない処ところに向かって冒険の旅に出たのです。
 やっとエルサレムに着いた学者たちは、ユダヤ人の王さまが生まれたのだから、皆が喜んでいるだろうと思ったのですが、誰一人としてメシアの誕生を喜んでいません。学者たちは驚き、がっかりしながらも、星の示してくれる処まで行きました。
 救い主の前にひれ伏した時、言葉で表すことのできないほどの素晴らしい喜びと慰めを感じながら、この赤ちゃんは神様から送られたひとり子だと認め、信じ、赤ちゃんを礼拝したのです。
 私たちも、イエスこそ私たちの主キリストであることを宣言いたしましょう。


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# by shukugawachurch | 2020-01-01 00:00
                                                       
エリック・バウチスタ・デ・グスマン 神父
 今年の8月は聖地巡礼に行ってきました。エルサレム、ベトレヘム、ナザレ、ガリラヤなどのイエスゆかりの地と旧約聖書と新約聖書にかかわるいくつかの巡礼地にめぐって、巡礼者の皆さんと一緒にミサに与ったり、聖書を読んだり、黙想したりしました。私にとって、一番楽しみにしていたのは、ベトレヘムでした。
 フィリピンでは、9月になると、ラジオ、デパート、広場などで、クリスマスの歌が流れ始めます。クリスマスの季節がやってきたということです。各家庭でも、馬小屋やクリスマスツリーなどの飾り物が少しずつ飾られます。特に、パロールという星の形をしている電飾を懐かしく思い出します。星は救い主がお生まれになったことを告げるベツレヘムで現れた星のことを表しています。
 私たちが泊まっていたエルサレムのノートルダムセンターからイスラエルとパレスチナの境界を超えて、バスで約30分のところに、ベトレヘムがあります。そのすぐ近くに、ベトサフルという場所があります。ここに、天使の大群が「栄光の賛歌」を歌って、夜通し羊の番をしていた羊飼いたちに主イエスのご降誕を告げたとされる「羊飼いの野教会」があります。教会の壁には美しい絵画があり、幼子イエスの誕生の場面と羊飼いたちと天使たちの場面も美しく描かれています。教会のすぐ隣には小さな洞窟があり、中には馬小屋が見えます。
 ベトサフルを出て、次は、ベトレヘムの生誕教会に向かいました。ベトレヘムはヘブライ語で「パンの家」という意味で、天から降ってきた、生けるパンであるキリストにぴったりな地名だと思います。生誕教会はエルサレムにある聖墳墓教会と同じように4世紀に、カトリックがローマ帝国の国教になったときにコンスタンティヌス皇帝によって建てられた教会です。街の真ん中には生誕教会があり、現在は正教会が管理しています。そのすぐ隣にはカトリックの「聖カタリナおとめ殉教者教会」があり、この地下にある聖ヒエロニムス小聖堂で私たちは平日ミサを捧げました。聖ヒエロニムスはベトレヘムで聖書をギリシア語(七十二人訳)とヘブライ語からラテン語(ウルガタ訳)に訳した聖人としてよく知られています。
 ミサの後、生誕教会に戻り、イエスがお生まれになった場所を訪れるために並びました。その日は巡礼者が多くて、私たちは一時間ぐらい並びました。列に並んでいるときに、生誕教会の周りをゆっくり見ることができました。一般的な正教会の聖堂と同じように、祭壇にはご像がなく、イコン(聖画)があります。聖地のあちこちによく見られる独特な金属のランプもたくさんぶら下げてありました。モザイクも壁の周りにありました。いくつかの巨大な柱が生誕教会の聖堂を支えています。
 やっと私たちの順番になり、小さな部屋のような場所に案内されました。イエスがお生まれになったとされる場所は星の形をしているマークで印されていました。巡礼者は皆、跪いてその星のしるしに触れて、静かにお祈りをしていました。聖なる場所に感動し、私は言葉が出なくなってしまいました。みことばである主キリストが肉となり、わたしたちのうちに住まわれたという受肉の神秘がここで完成されました。万物の造り主が小さな幼子としてお生まれになり、おとめマリアに抱かれて、静かに眠っておられました。これからは、聖書にあるイエスの誕生の場面を読むとき、そして、飾られている馬小屋を見るとき、ベトレヘムを巡礼したこの貴重な体験を思い出すでしょう。御父の目に見えない姿は私たち人間と同じ見える姿になり、罪のほかは私たち人間と同じになられ、私たちと同じ人間性をもって、キリストはここでお生まれになりました。こんな素晴らしい体験ができて、神様に一生感謝すべきだと思っております。



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# by shukugawachurch | 2019-12-01 00:00
                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父
 11月は死者の月です。日本では真夏の暑いお盆の頃、すでに亡くなった親、兄弟、姉妹、友人、恩人を思い起こし、先祖のために祈るという美しい習慣があります。
 カトリック教会では、11月、ちょうど自然界が紅葉し、寒風に吹かれて落葉する頃、先祖を思い、どの教会でも墓参し、お祈りを捧げます。当教会も11月3日(日)11時30分から満池谷墓地で、14時30分から甲山墓地で、亡くなった方々のためにお祈りを捧げます。
 私たちが生きているのは神の恵みによるものですが、先祖の御蔭おかげによって今があるのです。そのため先祖に感謝を捧げるのは当然のことであります。熱心な方は月命日にお墓参りをしておられます。私たちは、必ず死ねば神の前に裁きを受けます。ある人は神の恵みのうちに死に、一直線に天国に入り、イエスとマリア、諸天使と諸聖人とともに天国の喜びに入ります。ある人は、神の清さと親しさの中で死ぬのですが、何らかの小罪があったり、償いがまだ果たされていないため、確実に天国には入れるのですが、必要に応じて清めを受けねばならないのです。たとえるなら、鉄の一部が錆さび、その錆を取り除くために溶鉱炉に入れて錆をとって完成品にしてもらうのです。そのような人たちは煉獄に入って、清めをある一定期間受けなければなりません。この教えは「彼(ユダ・マカバイ)は死者が罪から解かれるよう彼らのために贖いのいけにえを献げたのである」(2マカバイ12・45)にあります。教会は初期の頃から死者の記念を重んじ、死者のために祈りを捧げていました。それは死者が清められて、神の至福直観に至ることができるためです。このような観点から故人のためにミサを依頼し、ミサの素晴らしい恵みを故人のためにプレゼントして、私たちの功徳を故人のためにお譲りするのです。その功徳をいただいた故人は、いち早く天国に上げられるのです。これを諸聖人の通つう功こうと言います。私たちこの世に生きている者が、善行、苦行、犠牲を捧げることによって、故人が早く天国へ旅立てるのであれば、素晴らしい愛の証となります。



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# by shukugawachurch | 2019-11-01 00:00