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カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch
                                                       
エリック・バウチスタ・デ・グスマン 神父

 主のご復活、おめでとうございます! わたしたちキリスト教徒にとって、主の復活は信仰の中心的な教義です。簡単に言うと、もしイエスが死者の中から復活できなかったならば、今までイエスの仰ったことばや人々の前で行った不思議なわざのすべてが偽りになってしまいます。主の復活によって、イエスが確かに、神の聖者、神の子、救い主、御父に選ばれた者、油を注がれた者、メシア、キリストであることが明らかになりました。
 主の復活はわたしたちの復活の前表(ぜんぴょう)にもなっています。信仰宣言の中で、わたしたちが「からだの復活」と唱えているのは、終わりの日に、死んだわたしたちのからだが分離された魂と再び結ばれ、神の裁きを受けるために、そして、永遠のいのちに与るために復活するということです。この「復活」は福音書に載っているイエスの奇跡による死者のよみがえりと違います。ラザロ、ナインのやもめの息子、ヤイロの娘は確かによみがえりましたが、あくまで、地上の生活の続きをしていたと考えられます。しかし、終わりの日にわたしたちが待ち望んでいる「復活」では、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのです(マルコ12章25節)。天国で、わたしたちは天使たちと聖人たちとともに、喜びのうちに神を終わりなくほめたたえるのです。顔と顔を合わせて、神様と会うことができるのです。これを至福直観といいます。そのとき、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光あるからだと同じ形に変えてくださるのです」(フィリッピ3章21節)。
 主の復活は終わりの日のことだけをわたしたちに思わせるのではありません。主が復活されたのは日曜日、週の初めの日です。万物の創り主である神は、六日間をかけて、愛と英知をもって、様々なものをお創りになり、最後に、ご自分に似せて、人間を創造され、七日目にお休みになりました。主の日である日曜日は安息日であり、主の復活をお祝いする日でもあります。そのために、わたしたちは教会で集まり、神様の大きな家族として、一つの共同体として、主日ミサに与ります。
 わたしもこの3年間、夙川カトリック教会で、皆さんと一緒に、この貴重な体験をさせていただいたことに対して、心から感謝申し上げます。皆様、本当にありがとうございました! 夙川がどんな教会共同体なのか、わたしも、3年間居て、見て信じました。復活節第2主日からは新天地である梅田ブロック(大阪梅田教会・関目教会)に赴任することになっています。本来であれば、皆様お一人おひとりにご挨拶をしなければいけないのですが、この場をお借りして、お礼とお別れの挨拶とさせていただきます。梅田も関目も近いので、皆様とまたお目にかかる機会があるとわたし自身は確信しております。それでは、神様のお恵みと聖母の取り次ぎがいつも皆様の上にありますように。


# by shukugawachurch | 2021-04-01 09:00

四旬節の心

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父
 今年も2月17日(灰の水曜日)から四旬節に入ります。当日は大斎・小斎日です。四旬節という概念は聖書の中で、特にイエスが荒野に退いた40日の断食と試みの出来事に基づいています。四旬節の典礼は4世紀~5世紀にかけて、一方で復活徹夜祭に行われる入信の秘跡の準備過程、とりわけ直前の準備である洗礼志願期の教話と典礼の充実化に結びつきました。さらにこの時期、回心者の和解式が復活祭直前に行われるようになり、先立つ40日間が公の回心の期間として捉えられ始めました。こうして聖書における40日の意味との関連で、洗礼準備者および回心者とともに共同体全体が、神のことばの傾聴、祈り、反省、断食などに専心する固有な季節の特徴が現れ、実践論としても深められました。ただ、40日の意味をもつこの季節を実際にいつからいつまでにするかという点では、4世紀~5世紀の段階ではまちまちでした。
 古来の断食は実際には正式な食事を日に一度、通常の夕食だけとし、さらに肉、ぶどう酒を控える断食でした。中世にはさらに乳製品や卵類も控えるようになりました。断食は回心、悪魔との闘いのしるしを意味しています。10世紀から、四旬節の開始の水曜日に、灰を公の回心者の頭に置く儀式が始まり、11世紀のローマでは、これが全信者のための式となり、回心行列の儀式と結合しました。
 第二バチカン公会議の典礼憲章は、復活祭の準備としての四旬節の眼目が洗礼の記念および準備、そして回心にあることを再認識し、この理解が教話および信者の生活実践を通して徹底されることを求めました。この趣旨に基づく典礼の改定は、四旬節の古代の成立時の枠組みと特徴を再び明確にすることを意図しています。四旬節の開始は従来通り「灰の水曜日」ですが、終わりが聖木曜日の主の晩さんの夕べのミサとされ、聖なる三日間とは区別されています。四旬節の意味を知り、私たちもこの期間、特に祈り、黙想、断食、愛の実践(貧しい人への寄付)などを通して過ごすよう努めましょう。

(2021年2月14日発行、夙川カトリック教会月報 2月/3月合併号)

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# by shukugawachurch | 2021-02-14 08:00
                                                       
エリック・バウチスタ・デ・グスマン 神父
1月1日は新しい年の始まりです
 皆様、新年明けましておめでとうございます! 去年はコロナウイルス感染症のためにわたしたちは色々な面で生活が大変でした。教会も、ミサや行事や活動などは制限されて、信者との交わりを普通に行うことができませんでした。毎日のニュースは感染者の人数ばかりを報道して、いつも感染防止対策を実施するようにと呼び掛けられました。わたしは個人的に2020年をリセットしたい気持ちが一年中にずっとありました。
 しかし、大変な一年間でしたが、神様に感謝すべきものもたくさんあったと思います。コロナの中にもかかわらず、わたしたちの教会共同体には感染者や集団感染(クラスター)もなく、わたしのフィリピンにいる家族も感染から守られたこと、オンライン会議を通じて、日曜学校やオンラインミサも体験できて、コロナ禍ならではの新しい方法で福音宣教に挑戦できたこと、コロナ禍の中で、多くの方々から声を掛けていただいて、様々な形で支援や励ましをいただいたこと、そして、コロナ禍の中で、神様のみ摂理と聖母マリアのご保護がいつもあることです。そのおかげで、新しい年を希望のうちに迎えることができます。
1月1日は神の母聖マリアの祭日です
 1月1日は、12月25日「主の降誕(クリスマス)」の8日目で、教会では降誕祭の8日間の最後の日です。それと同時に、1月1日は新年の最初の日で、新しい年を迎える喜びの日でもあります。神様には過ぎ去った年の一年間で頂いた恵みを心から感謝し、これから過ごす新しい年も同じように、多くの恵みであふれるようお祈りします。教会では、1月1日は「神の母聖マリア」の祭日でもあります。神の子キリストを9か月間、自分の胎内に宿し、ベツレヘムで幼子イエスを生んでくださった聖母マリアをお祝いする日です。新しい年を、マリア様の取り次ぎを願い、皆の健康と安全を御父に祈るのです。
1月1日は世界平和祈願の日です
 教会はさらに、1月1日を「世界平和祈願の日」として定めています。全世界が、これからの一年間平和であるようにと、わたしたちは皆、心を合わせて聖母マリアの取り次ぎを願い、御父に祈ります。対立と争いが無くなり、すべての人の心に平安があるように。
1月1日はコロナのない社会をお祈りする日です
 最後に、すべての人を苦しませてしまったコロナウイルス感染症が、一日も早く終息することを、これからも祈っていきたいと思います。神様の導きにおいて、予防接種(ワクチン)やコロナの薬が多くの人々に効果的であることを祈り、すべての人が安心して、暮らせる日が来ますように。そして、コロナウイルス感染症がわたしたちに教えてくれたことが、これからも、心と頭の中に残り、日々の生活の中に活かすことができることを神様に祈りたいです。わたしたち人間は、皆で力を合わせて、様々な試練を乗り越えられること、弱い存在である人間は神様なしに生きることができないこと、そして、誰をも排除せず、すべてのいのちを大切にし、守ることは、このパンデミックがわたしたちに再び気づかせ、教えてくれたことだと思います。


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# by shukugawachurch | 2021-01-01 10:00

神が人となった

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父

 主イエスのご降誕祭、おめでとうございます。ヨハネは「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とイエスの降誕の出来事を語っています。言という表現は何を意味するのでしょう。言は、人間の場合、人の思い、考えを他者に伝えるために心が結晶したもの、心が形となったものと言えるでしょう。
 心そのものはなかなかわかりにくいものです。同じことは神の心にも言えます。神の心も極めてつかみにくく、理解しにくいものです。そういう神の心が結晶し、形あるものになったのが、神の言だというのです。神の言こそキリストなのです。それ自体としてはとらえにくい神の心が、キリストという形に結晶したのです。したがって、キリストという神の言を聞けば、神の心が理解できるのです。
 神の言であるキリストが肉となり、わたしたちの間に宿られたとは、どういう意味なのでしょうか。心が言に結晶したのは、心を他者に伝えるためです。神の心を結晶させた言は、相手である人間に伝達されねばなりません。言によって神の心が伝わるのは、自分が相手と同じ立場になった時です。
 幼稚園の先生は教えるとき、子どもにわかるように、子どもに通じる言葉を使います。神の心もそれ自体は、相手である人間にとってつかみにくい、超越的な心です。したがって、そのままでは神と人間とは対話が成り立ちません。神は人間を超えた自分の心を言にまで結晶させ、キリストという形にして、相手である私たち人間に伝達しようとされたのです。その時に神の言であるキリストは、相手の立場にまでなって、人間の形をとり、人間としてこの人間の世界の中に生まれてくることが必要であったのです。これがクリスマスの意義であります。
 クリスマスは、受肉(托身)の出来事が起こった時であります。神が人間となって私たちとともに生きてくださる、最も嬉しい日なのです。

# by shukugawachurch | 2020-12-01 09:00
                                                       
エリック・バウチスタ・デ・グスマン 神父

 10月10日にイタリアのアッシジ教区の聖フランシスコのバジリカでフランシスコ教皇の特使であるアゴスティーノ・ヴァリーニ枢機卿の司式により、尊者カルロ・アクティスの列福式ミサが捧げられました。テレビやラジオやインターネット経由で放送されたため、列福式ミサの様子は世界の各地で観ることができました。
 では、福者カルロ・アクティスとは誰ですか? どんな生涯を過ごしましたか? どうしてカトリック教会はこの人を福者として認めましたか? そして、どうして多くの人がその列福式に注目しましたか?
 福者カルロ・アクティスは現代の福者であり、インターネットの保護の聖人と言われています。列福式ミサの中で、列福の儀の前に、福者カルロ・アクティスの生涯について知ってもらうために、簡単な紹介文が読まれました。カルロは1991年にイギリスのロンドンでイタリア人のご両親の間に生まれ、カトリック教会で洗礼を受けました。子どもの頃からカルロには強い信仰が見られました。他の子どもと比べ、ご聖体に関する理解を幼い頃から持っており、そのために、早めに初聖体を受けることを主任司祭に認められました。カルロは初聖体を受けてから、できるだけ毎日ミサに与り、ご聖体をいただくこと、そして聖母マリアに毎日ロザリオを捧げることを大切にしていました。
 また、カルロは、アッシジの聖フランシスコにならって、貧しい人々に施しをよくしていました。カルロは自分のお小遣いを節約し、残った分を貧しい人々に施していました。カルロは聖ドミニコ・サヴィオ*の模範にもならい、仲間の子どもたちを悪い影響から退かせ、神様の道を歩むように導くことに力を入れていました。
 カルロは10代になってから、パソコンに興味を持つようになり、プログラミングとホームページ作りを学びました。カルロは学んだ知識を生かして、大好きな聖体のことを普及させるために聖体の奇跡を紹介するホームページを作りました。カルロは自分で何ヶ所かの聖体の奇跡が起こった現場へ巡礼と取材に行きました。「ご聖体は天国へ行くための高速道路である」は、カルロの有名なスローガンです。
 2006年10月、カルロは体調が悪くなって、入院しました。検査の結果は白血病でした。カルロはその結果を冷静に受け止めました。「これから、私は死んでいきます」と笑顔のカルロは動画で語っています。「この病による苦しみを多くの魂の救いのために捧げ、自分が天国へ行けるように」とカルロは言いました。そして一週間後、10月12日に15歳の若さで、神様のもとに旅立ちました。
 福者カルロ・アクティスは、私たちも聖人になれること、そして、先端技術も聖性への道の道具として使えることを現代の私たちに教えています。私たちはインターネットを何のために使っていますか? いのちとは、この世に生きるために神様から与えられている時間であり、永遠のいのちに与るための準備期間だと認識すればいいと思います。
 ご聖体であるキリストと聖母マリアを日々の生活の中で大切にしてきたカルロは、この世から旅立つことに怖れを感じることはありませんでした。自分の目的地が天国であるとはっきりと意識しており、ご聖 体は目的地への道(高速道路)であることを、子どもの頃から悟っていました。確かに、子どもや青年たちだけでなく、大人の私たちも、福者カルロ・アクティスの模範から学べることが多いと思います。
 福者カルロ・アクティス、私たちのためにお祈りください!

*聖ドミニコ・サヴィオは14歳で亡くなった聖人で、侍者・子どもたちの聖人
# by shukugawachurch | 2020-11-01 09:00