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カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 多くの愛が「壊れる」姿を見ます。 愛が香りで、美しさで、豊かな実を結ぶことができずに終わる理由は何でしょうか? 様々な原因があると思いますが、その最たるものは、おそらく愛と所有を混同することではないかと思います
 多くの人が愛と所有を混同します。真の愛は、相手を所有するのではなく、解放してくれる愛です。真の愛は、相手を抑圧するのではなく、成長させてくれる愛です。真の愛は相手を不快にさせるものではなく、心穏やかにしてくれる愛です。
 人は元来、縛られたくない存在です。束縛を嫌い、自由であることを望みます。このように、本来自由を渇望する人間ですが、ある人は、愛する人をまるで水槽に入っている熱帯魚のように思います。あるいは、自分だけを見つめてくれるペットのように思います。そうするうちに、相手はまるで監獄に閉じ込められているような感覚に陥ります。その結果、もたらさせるものは、深い傷と苦しみです。
 イエス様はどのようなお方でしょう? どこにも縛られない風のような神様、この狭い人間の世の中に、私たちの心に束縛してしまうには、あまりにも大きいお方です。
 私たちの愛がイエス様の大きな愛によって、一層成長していくことを願います。真の愛は、相手に対して抱いていた、愛に対する虚像と愛惜を打ち破ることを求めます。真の愛は、相手をありのまま受け入れることを求めます。
 愛が簡単に壊れるもう一つの理由は、相手に対する過度な期待です。あれほど命をかけてイエス様の後をついて回った人々、命をかけてイエス様への愛を誓った人々が、静かに皆去っていきました。イエス様の真のお姿を受け入れることができなかったためでした。
 彼らの目には英雄のようなイエス様の姿だけが映っていました。亡くなった人々をもあっという間に治癒させる「名医」イエス様だけが彼らにとってのイエス様でした。父である神の意思に従い、全てを置いて十字架の道を歩かなければならない、現実のイエス様のお姿には目もくれませんでした。敵の手に渡り、恥辱的な死を迎えなければならない苦しみの内にあるイエス様のお姿を、決して望みませんでした。人間的な愛が崩れるとき、私たちは別の愛に出会います。私たちに対する神の愛であり、神に対する私たちの愛です。私たちの愛がより一層深く、より永続的な愛となることを願っています。


# by shukugawachurch | 2024-09-01 10:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 謙遜について考えてみましょう。
 キリスト教徒を含め、多くの人は謙遜について、誤って認識しています。自分の価値を下げ、卑下することだと、また、自分には何の才能も能力もないと、自分を過大評価しないことだと、それが謙遜だと信じ込んでいます。
 しかし、このようなことは謙遜ではありません。聖アンブロジウスは、謙遜とは、「私はゴミのような存在です」というような自己卑下的な言葉ではいと説きました。謙遜とは、自分自身と自分自身に与えられた使命を十分に認識しているということです。それに相応(ふさわ)しい行動をとることです。最も完璧な謙遜の模範は、聖母マリア様です。
 聖母マリア様の祈り「マグニフィカト(マリアの賛歌)」を見ますと、マリア様がいかに謙遜でいらしたかが分かります。
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今
ら後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名(みな)は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」(ルカ 1・46‐50)
 聖母マリア様は「今から後、どの時代の人々もわたしを幸いな者と呼ぶでしょう」とおっしゃいました。ですが、誰も聖母マリア様を傲慢だとは非難しません。聖母マリア様は、神様がご自分になさったことをそのまま受け入れ、感謝し、神様を賛美するのです。
 聖母マリア様のように、神様にだけ心を向け、自分を無にすることが真の謙遜です。言い換えれば、私が私の人生の主人ではありません。神様が私の人生の主であり、私はその方の道具であることを自覚することが真の意味での謙遜であることを心に留めておきましょう。

# by shukugawachurch | 2024-07-27 21:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父

 彼の母親は、これらすべてを心に留めていました。
 私たちが祈る時やミサの時に最も多く使う単語はまさに「アーメン」ではないかと思います。
 「アーメン」の意味は「そうなることを願う」または「そうなりますように」です。その意味から「アーメン」という回答も一つの祈りであり信仰告白であり、もう一つの従順です。
 その従順の姿をよく見せてくれる方がまさに聖母様です。
 イエス様を宿すという天使ガブリエルの言葉に「そのまま叶なうことを願います」という応答は 「アーメン」といった  回答、従順の答えでした。
 シメオンの予言(ルカ 2・25-35)と、エルサレムに残り、律法学者たちと話を交わしている幼いイエス様。
 このような理解できない行動と言葉をただ心に留めておいうこともまた一つの従順です。
 すぐにはその意味が理解できませんが、明らかにその中に大きな意味があると信じる聖母の姿は、従順がどんなものなのかを教えています。
 教会の中で、社会の中で、私たちが理解できない、私たちが知らないことが起きたりもします。
今は知らなくても、私たちが神様の中にいる限り、神様がすべてを知らせてくれます。
 もしかしたら、今は聖母様のように心の中におさめて待たなければならない時間かもしれません。
 私の祈りに答えてくださる時に叫ぶ「アーメン」ではなく、神様の意思が叶うのを待つ「アーメン」、つまり従順でなければなりません。
 私の「アーメン」という答えに神様への「信頼」と「従順」の心が込められているか、考えてみましょう。

# by shukugawachurch | 2024-05-26 10:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 イエス様のご復活の大祝日は、祝祭日全体の中で最も重要な祝日です。 福音は週の初めの日の夜明けに起きた事件を述べ伝えています。 マグダラのマリアは早朝に墓に向かいます。 厳格な律法によると、安息日にユダヤ人は行けません。
 しかし墓に着くと、驚いた事に墓を塞いでいた石は、わきへ転がしてありました。 石がよけられているのを見て、マグダラのマリアはイエス様がご復活されたというより、 誰かがイエス様を墓から持ち出したのだと思い、これを墓に対する冒涜行為だと思います。
 「誰かが主を墓から持ち出して行きました。 どこにお連れになったのか、わかりません」。彼女にとって復活は不可解で、とても考えられることではありません。
 マリアがシモン・ペトロとイエスが愛した他の弟子のもとに駆けつけてこのことを伝えると、 二人の弟子は、確認するため墓に駆けつけます。 ペトロと他の弟子が見たもの、すなわち残された覆いと亜麻布がこの驚くべき出来事の証です。
 弟子たちはイエス様の死により、全てが終わったと感じていたため、復活するというその方の予言が、とても現実の事とは思えず、全く理解できませんでした。 福音書にもあるように、この予言も全く明確なものではありませんでした。
 イエス様が「再び立ち上がる」、「再び目覚める」とお伝え下さったその言葉が、弟子たちには何を意味するものなのか理解できず、その方のご復活のため、何の準備もできていませんでした。
 「イエスが死者の中から必ず復活されることを記した聖書の言葉を 二人はまだ理解していなかったのである」。この出来事があって後、弟子たちは、聖書が何を説き、何を伝え、イエス様の予言が何を意味するのかを悟ります。
 イエス様のご復活は私たちの信仰とその心を明確にして下さいました。

# by shukugawachurch | 2024-03-30 19:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
イエス様は、ご自分が神様から出て、神様のところに戻ることを知っておられたので、自ら弟子たちの足を洗い、腰に巻いたタオルで足を拭き始めま
した。

最後の瞬間に見せてくださいます。
最高の愛は仕えることであることを。

十字架を控えた極限の状況で、神様は愛を見せるために弟子たちの足を洗います。
弟子たちと別れる瞬間です。
その愛する方がぼろぼろに傷だらけになっていくのを目にしながらも、助けられないまま見守ることしかできない、どうすることもできないという切ない気持ち。
弟子たちのその気持ちが伝わり、ご自分の不在により受けることになる苦痛を慰めようとしたイエス様の心です。

神様は喪失と悲しみの時間が訪れる前に、優しい愛で抱いてくださいました。
私たちが受けた恵み、私たちが体験した神様の愛、 それは現在の苦痛をうまく乗り越えようとあらかじめ施してくださった神様の愛のサインです。

イエス様が洗ってくださったその足でユダは神様を売り渡しに行くでしょうが、他の弟子たちは地の果てまで福音を伝える使命に耐えるでしょう。
その足を差別なく、きれいに洗ってくださったのです。

復活の人生を送りたいなら、愛することを遠い未来に延ばしてはいけません。
イエス様は裏切りの夜に足を洗ってくださり、ご自分の体を与えてくださいました。

ご自分が生き残ることをあきらめて、他人の命を救うためにご自分の命を差し出してくださいました。
「私」を消し、「世の中」を生かしたその愛は、あまりにもすさまじく涙ぐましいものです。

今イエス様が洗ってくださったその足で、皆さんはどこに向かっていますか?


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# by shukugawachurch | 2024-03-02 18:00