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カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 去る4月、ローマ・カトリック教会はフランシスコ教皇を神様の国へとお送りしました。フランシスコ教皇の死は私たちに深い悲しみをもたらしましたが、新しい教皇レオ14世がその座を引き継がれました。
 バチカンに注がれた世界中の視線は、フランシスコ教皇の生涯に注目し、彼が私たちに示してくださった謙遜の心、そして貧しい人と共に歩まれた道を照らし出し、伝え続けました。全カトリック信徒の最高指導者として彼がお示しになった生き方は、人々の模範となり、多くの人に深い感動を与えて下さいました。そして今、新教皇レオ14世が選出され、これからこの新しい教皇を通して私たちが進むべき教会の道に希望と期待が寄せられています。教皇が名乗る教皇名には、今後カトリック信者をどのように導いていこうとしているのかという意志が込められています。貧困と共に生きることを示してくださることもあれば、時に厳格な規律や規則を改めて、正し、定め、徹底していくことをお示しになることもあります。多くの教皇たちは、自らが選んだ聖人の名前に違わず、その生き方を模範としてカトリック教会を導いて来られました。私たちは彼らを敬い、従い、彼らのために祈ります。教皇の死の悲しみの内にある今も、新たな始まりに喜びと期待を持ちます。
 しかし、私たちが忘れてはならないことがあります。使徒ペトロから始まり、現在のレオ14世教皇に至るまで、彼らが歩んできた数々の道そのすべては、すでにイエス様が歩まれた道であるということです。そしてそのイエス様の道の一つ一つを、私たちも共に歩んでいます。その一つ一つが集まってできた途切れることのない一つの長い道が、やがて私たちを天国へと導いてくれるのです。だからこそ、すべての道がイエス様へとつながっているということを見落とさないようにしなければなりません。新教皇への期待と希望を持つことは、教会に祝福をもたらしますが、そこで留まっていてはいけません。私たちは教皇を通して、その先にある真の愛と平和、そして私たちの救い主であるイエス様に出会わなければなりません。もしイエス様に至らなければ、生涯を捧げた私たちの信仰は、ただの形骸にすぎなくなってしまうでしょう。だからこそ、日々の信仰を今一度見つめ直しましょう。私たちが歩んでいるこの道は、果たして神の道へと私たちを導いているでしょうか?それとも、依然として自身の我や固執、欲望にとらわれ、教会の教えを拒み、頑なに誤った道を歩み続けてはいないでしょうか?そのために、ついには教会を離れるという愚かで悲しい決断をしてしまってはいないか、自分自身を顧みる必要があります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきですが、イエス様というぶどう酒の味を失ってはなりません。
 私たちは新しい教皇に向かって「Habemus Papam!(私たちは教皇を得た!)」と声を上げますが、常にイエス様が共におられることを心に留め、「Habemus Jesum!(私たちはイエス様を得た、イエス様と共にある!)」という言葉を心に刻んで生きていきましょう。


# by shukugawachurch | 2025-06-22 10:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫
 救い主イエス・キリストが復活されました、アレルヤ、アレルヤ。
キリスト教徒には、年に2回の誕生日があります。イエス様のご生誕のクリスマス、そしてイエス・キリストのご復活。
 この日を喜び讃える理由は、新しい命が再び始まるからです。何千年にもわたって、私たちはこの日を喜びます。この日を祝います。この日を待ち望みます。
 しかし、本当に私たちはイエス様のご生誕とご復活を待ち望んでいるのか考えてみなければなりません。イエス様も、私たちと同じようにこの世にお生まれになりました。そして、死に葬られ、またご復活なさいました。これにより、イエス様はあなたの人格とその神聖さを私たちに見せてくださいました。
 私たちは、それぞれのご誕生を通じてイエス様に同じ人間性を感じ取ります。しかし、私たちがイエス様の神聖さを感じ取るためには、私たちは、そのご復活も共にしなければなりません。
 イエス様のおこされた、ナインのやもめの息子を生き返らせた奇跡は、復活の意味をよく示しています。イエス様の時代に夫を亡くしたやもめは、相続者である一人息子まで失ってしまいました。そのやもめは何の保証も保護も受けられません。イエス様はただ、やもめの息子を理由もなく生き返らせたのではなく、このようなやもめの事情までもご存知でいらしたからこそ、そのお力を出してくださったのです。イエス様がいらしたカファルナウムから、ナインという町までの距離は48キロです。翌日に予定されていたナインのやもめの息子の葬儀が行われるのを防ぐため、イエス様は夜通し歩かなければなりませんでした。これは、偶然出会った人々を助けたのではありません。このようにイエス様が進んでおこされた奇跡は、息子を失った悲しみに加え、これ以上なんの保証も保護も受けることのできないやもめを、悲しみと絶望から喜びと希望に導いてくださった真の「復活」の姿です。
 イエス様がどこにいらっしゃるのか分からない時があります。 イエス様の存在を疑う時もあります。しかし、いつも私たちを見守ってくださっているイエス様を、私たちは信じなければなりません。そんな時、私たちは奇跡を享受します。 つまり、私たちがイエス様を信じる時、私たちはあなたのご復活を初めて体験できるのです。不平、不満、不信、疑いの中ではイエス様に会うことはできません。イエス様はむしろ私たちの元にいつでもお越しくださいます。私たちの準備が整うのをお待ちくださっています。
 イエス様を心から信じるその瞬間こそが、まさに私たちの人生の復活祭です。私は今、イエス様を信じていますか。私の人生の復活祭はいつですか?

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# by shukugawachurch | 2025-04-01 10:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫
 多くの方々が癌により命を落とされています。癌を早期に発見し治療するという事は、大変大きなお恵みだと言えます。多くの場合、初期の段階では、違和感や痛みなどの自覚症状はほぼ見られないと言います。痛みが感じられ、症状が現れる時にはすでに癌細胞が私たちの体の多くを蝕み、癌が進行している場合が多くあります。病に冒された方々が望む事はただ一つです。
 「痛くありませんように」
 しかし、人間は健康であれば、望み願うことが多くなります。お金も多ければ多いほど良い、子どもたちが立派に育って欲しい、ブランドバッグも買いたいし、車も買い替えたい。他人より大きな家に住みたいし、夫が昇進しますように、子どもたちが合格しますように…と祈ります。そういったことに集中していると、私たちは心の健康の有り難さや大切さを忘れてしまいがちになります。このように、自身の望みばかりに心を奪われた人生は、生活と内面の不均衡を生み出します。すべてを備え持っていたとしても、家族間の不和が起こり、親戚、友人、同僚などとも問題が生じます。心ががらんどうだからです。人間は本来、痛みや苦しみに晒された時、初めて生きることの本質と向き合う傾向を持っています。
 「苦痛」は一つの信号です。 今、私たちが歩む道が間違っているという警告です。しかし、私たちはそれを軽んじ、気にも留めません。まだ自分の生活に、自分の体に、何の問題もないからです。結局問題が生じてから、なんとか解決法を探すため、私たちは多くの労力を要し、多くの時間を費やさなければならなくなります。
 キリスト教徒の内面、つまり霊性も同様です。見た目だけに気を取られた人生は、すでに不均衡が進んでいます。この不均衡を正すことができるのは、自身の内面としっかり向き合うこと以外、方法はありません。自分が教会に通えていないことに対して申し訳ない気持ちがあるのであれば、それが合図です。しかし、これも繰り返されると、私たちはその信号にさえ気付く機会を失ってしまいます。そしてその時、心には既に「罪」という癌細胞が蔓延しています。そのようなことにならないためにも、自身の内面を見つめる、信仰の内視鏡が必要です。それを集中的に行うよう教会が促す時が、まさに四旬節です。
 健康のため定期的に内視鏡検査を受けるように、自分の心も信仰の健康のために、定期的に内視鏡で見つめ直さなければなりません。 その方法を私たちはすでに知っています。実践です。我が心の罪という癌の塊が大きくなる前に、信仰の内視鏡、つまり、ゆるしの秘跡を通して私たちの罪を告白しゆるしを得ることで、皆が、心の健康を取り戻すことのできる四旬節になることを願います。

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# by shukugawachurch | 2025-02-23 10:00
                                                       
主任司祭 ダニエル 李 昇倫
 明けましておめでとうございます
 あっという間に一年が過ぎ、新たな一年を迎えることになりました。新年を迎え、私たちは各自それぞれの心を持ちます。ある方は過ぎ去った一年を振り返っての反省を、ある方はこれから迎える一年に対する期待と決心を。
 ここで私たちが覚えておくべきことは、時間とは有限な存在が持つ概念です。神様には時間という概念は必要ありません。永遠の中にいらっしゃるからです。永遠の中で私たちが追求しなければならないのは、過去を見つめる後悔ではありません。だからといって、まだ訪れてない未来を心配する必要もありません。
 私たちが自分でコントロールできる時間はまさに現在です。それが神様が私たちに与えられた唯一の時間です。
 英語に「present」という言葉があります。「プレゼント」はかなり慣れている言葉ですが、この言葉には二つの意味があることをご存知でしょうか。
 「現在」という意味と「贈り物」という意味!
 「現在」こそ、神様が私たちにくださった最も大きな「贈り物」になのです。「現在」をどう過ごすかによって、来年の今頃、私たちに訪れる心と気持ちは違うでしょう。
 一年という時間は、人間が作った時間の基準です。神様が私たちに与えられた「時間」という「贈り物」。贈り物は相手の心を温め、幸せにするものです。 時間という贈り物が私たちの心を温め、幸せにさせるのでしょう。そして、私たちがその時間を忠実に豊かに使ったとき、温まる心と幸せの心はさらに大きくなるでしょう。
 新年を迎え、新たな計画を立てる方も多くいらっしゃると思います。
 いつもの話ですが、今年は忘れずにこれだけは皆さんの心の中に刻んでいただきたいことがあります。
真理(神様のお言葉)以外に当たり前なことはただ二つしかありません。
 「感謝すること」と「罪を犯さないこと」
 私たちに与えられた時間の中で、この二つさえ守れば、私たちの新しい一年は過去のどの一年よりも貴重な時間になるでしょう。これこそ、神様が「贈り物」としてくださった「現在」を忠実に生きることになるからです。
 この一年を送る皆さまが「今年一年よく過ごした」と振り返ることができることを願います。

# by shukugawachurch | 2025-01-01 09:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 多くの信者はルカ福音書16章の「不正な管理人のたとえ」の話を理解できないと思います。聖書に出てくる家来は、主人の財産を「浪費」して主人に呼ばれ、職を奪われることになります。 彼は土を掘る力もなく、物乞いするのも恥ずかしいので知恵をしぼります。それは、主人に借金をした人たちを呼び、証書の金額を勝手に直させ、彼らの借金を少なくすることでした。こうすると、その家来は主人から追い出されても、人々は自分を受け入れられると「自分のために」利口な行動をします。
 ですが、このことを知った主人は、その利口な家来を「褒め」ます。まさにこの部分が信者たちに理解できないところです。自分のために、主人の財産を重ねて不正に使った人のことを主人がその行動を褒めるからです。しかし、恵み深い主人にとっては、不正な管理人の不正よりも、彼の不正な行動によって貧しい人が救済を受けられたことに注意を向けます。それで家来を「褒める」のです。
 ここで私たちが注目すべきことは、主人が家来を「褒める」ことは事実ですが、その家来が犯した行動を「許す」ことではありません。善行に対して「褒める」、悪行に対しては「許し」が必要です。私たちがこの不正な管理人のたとえを理解できないのは、この「褒める」という言葉を「許す」という言葉と同じように考えるからです。褒められたから許された! 家来が主人の財産で困っている人たちの荷を軽くしてあげたのは、助けられた立場としては善行なので「褒める」のですが、家来が主人の財産で勝手なことをしたことについては「許し」が必要なのです。主人は家来を「褒めた」ものの、「許し」はしていません。ということは、家来の罪はそのまま残っているのです。「許し」を通して主人が自分を受け入れない限り、彼は再び主人の家来に戻ることはできません。
 私たちの信仰も同じです。私たちがいくら善行をして褒められたとしても、私たちの罪がなくなるわけではありません。私たちの罪は「秘跡」を通してなくなります。それは教会の中で「ゆるしの秘跡」を通して行われます。つまり、いくら善行を積んでも、自分の罪をそのまま持って天国に入ることはできません。
 クリスマスを控えた今、最もきれいな赤ん坊の姿でいらっしゃるイエス様をお迎えするために、私の心の「まぐさおけ」についた罪の垢を告解し、秘跡を通して洗い流せる時間を必ず持つようにしましょう。


# by shukugawachurch | 2024-12-01 10:00