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カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch
                                                       
主任司祭 ダニエル 李 昇倫
 明けましておめでとうございます
 あっという間に一年が過ぎ、新たな一年を迎えることになりました。新年を迎え、私たちは各自それぞれの心を持ちます。ある方は過ぎ去った一年を振り返っての反省を、ある方はこれから迎える一年に対する期待と決心を。
 ここで私たちが覚えておくべきことは、時間とは有限な存在が持つ概念です。神様には時間という概念は必要ありません。永遠の中にいらっしゃるからです。永遠の中で私たちが追求しなければならないのは、過去を見つめる後悔ではありません。だからといって、まだ訪れてない未来を心配する必要もありません。
 私たちが自分でコントロールできる時間はまさに現在です。それが神様が私たちに与えられた唯一の時間です。
 英語に「present」という言葉があります。「プレゼント」はかなり慣れている言葉ですが、この言葉には二つの意味があることをご存知でしょうか。
 「現在」という意味と「贈り物」という意味!
 「現在」こそ、神様が私たちにくださった最も大きな「贈り物」になのです。「現在」をどう過ごすかによって、来年の今頃、私たちに訪れる心と気持ちは違うでしょう。
 一年という時間は、人間が作った時間の基準です。神様が私たちに与えられた「時間」という「贈り物」。贈り物は相手の心を温め、幸せにするものです。 時間という贈り物が私たちの心を温め、幸せにさせるのでしょう。そして、私たちがその時間を忠実に豊かに使ったとき、温まる心と幸せの心はさらに大きくなるでしょう。
 新年を迎え、新たな計画を立てる方も多くいらっしゃると思います。
 いつもの話ですが、今年は忘れずにこれだけは皆さんの心の中に刻んでいただきたいことがあります。
真理(神様のお言葉)以外に当たり前なことはただ二つしかありません。
 「感謝すること」と「罪を犯さないこと」
 私たちに与えられた時間の中で、この二つさえ守れば、私たちの新しい一年は過去のどの一年よりも貴重な時間になるでしょう。これこそ、神様が「贈り物」としてくださった「現在」を忠実に生きることになるからです。
 この一年を送る皆さまが「今年一年よく過ごした」と振り返ることができることを願います。

# by shukugawachurch | 2025-01-01 09:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 多くの信者はルカ福音書16章の「不正な管理人のたとえ」の話を理解できないと思います。聖書に出てくる家来は、主人の財産を「浪費」して主人に呼ばれ、職を奪われることになります。 彼は土を掘る力もなく、物乞いするのも恥ずかしいので知恵をしぼります。それは、主人に借金をした人たちを呼び、証書の金額を勝手に直させ、彼らの借金を少なくすることでした。こうすると、その家来は主人から追い出されても、人々は自分を受け入れられると「自分のために」利口な行動をします。
 ですが、このことを知った主人は、その利口な家来を「褒め」ます。まさにこの部分が信者たちに理解できないところです。自分のために、主人の財産を重ねて不正に使った人のことを主人がその行動を褒めるからです。しかし、恵み深い主人にとっては、不正な管理人の不正よりも、彼の不正な行動によって貧しい人が救済を受けられたことに注意を向けます。それで家来を「褒める」のです。
 ここで私たちが注目すべきことは、主人が家来を「褒める」ことは事実ですが、その家来が犯した行動を「許す」ことではありません。善行に対して「褒める」、悪行に対しては「許し」が必要です。私たちがこの不正な管理人のたとえを理解できないのは、この「褒める」という言葉を「許す」という言葉と同じように考えるからです。褒められたから許された! 家来が主人の財産で困っている人たちの荷を軽くしてあげたのは、助けられた立場としては善行なので「褒める」のですが、家来が主人の財産で勝手なことをしたことについては「許し」が必要なのです。主人は家来を「褒めた」ものの、「許し」はしていません。ということは、家来の罪はそのまま残っているのです。「許し」を通して主人が自分を受け入れない限り、彼は再び主人の家来に戻ることはできません。
 私たちの信仰も同じです。私たちがいくら善行をして褒められたとしても、私たちの罪がなくなるわけではありません。私たちの罪は「秘跡」を通してなくなります。それは教会の中で「ゆるしの秘跡」を通して行われます。つまり、いくら善行を積んでも、自分の罪をそのまま持って天国に入ることはできません。
 クリスマスを控えた今、最もきれいな赤ん坊の姿でいらっしゃるイエス様をお迎えするために、私の心の「まぐさおけ」についた罪の垢を告解し、秘跡を通して洗い流せる時間を必ず持つようにしましょう。


# by shukugawachurch | 2024-12-01 10:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父

 私たちの不完全な体は「聖霊の聖殿」であり、常に心をきれいに保つ必要があります。私たちの内にある「宝物」が「貪欲の罪」によって光を失わないようにしなければならず、私たちの内の聖霊が神聖であるよう「貪欲の罪」に汚されないようにしなければなりません。
「何よりもあなたの心を守りましょう。そこから生命の泉が流れ出るのです」(箴言 4・23)
❖ ゆるしの秘跡の五つの要素
1、省察
 自身の心を顧み、何を誤り、それによってどのように神様の愛に背いたかを自省します。犯した罪を認め、正直に告白できるよう聖霊に助けを求めます。
2、回心
 罪人たちのために苦痛をお受けなり、犠牲になられたイエス様と、罪によって傷ついた自身と隣人を思い、罪を悔います。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ 18・13)と言った徴税人のように、すべてを委ねる心が真に必要です。
3、決心
 自身を顧みる十分な準備と、感謝のうちに自身を置き、二度と罪を犯すことなく神と教会、そして隣人との調和を築き、維持していくことを決心します。
4、告白
 司祭の前で正直に自分の罪を告白します。できるだけ詳しく告白しなければなりません。犯した罪に対して弁解しようとしてはいけません。
5、償い
 告白を聞いた司祭からの教えや祈りを実践します。ゆるしの秘跡を通して授けられた神様の恵みに感謝し、喜んで償いを行い、司祭が与えた導きを心に刻まなくてはなりません。

 カトリック教徒なら誰しもゆるしの秘蹟を通じてゆるしを得ることができます。この秘跡は、神様が私たちにくださる最大のお恵みです。
 ゆるしの秘跡が何度でも可能なその理由は、「7回どころか7の70倍まで」とおっしゃったイエス様のお言葉のように、ゆるしを請う者は常におゆるしくださるイエス様の大きな愛によりゆるされるのです。
 神様は私たちのため貴重なゆるしの秘跡を、見返りを求めることなくお与えくださいました。このお恵みを通じ、神の国に入ることができるかどうか、それは依然として私たち次第なのです。

# by shukugawachurch | 2024-10-27 10:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 多くの愛が「壊れる」姿を見ます。 愛が香りで、美しさで、豊かな実を結ぶことができずに終わる理由は何でしょうか? 様々な原因があると思いますが、その最たるものは、おそらく愛と所有を混同することではないかと思います
 多くの人が愛と所有を混同します。真の愛は、相手を所有するのではなく、解放してくれる愛です。真の愛は、相手を抑圧するのではなく、成長させてくれる愛です。真の愛は相手を不快にさせるものではなく、心穏やかにしてくれる愛です。
 人は元来、縛られたくない存在です。束縛を嫌い、自由であることを望みます。このように、本来自由を渇望する人間ですが、ある人は、愛する人をまるで水槽に入っている熱帯魚のように思います。あるいは、自分だけを見つめてくれるペットのように思います。そうするうちに、相手はまるで監獄に閉じ込められているような感覚に陥ります。その結果、もたらさせるものは、深い傷と苦しみです。
 イエス様はどのようなお方でしょう? どこにも縛られない風のような神様、この狭い人間の世の中に、私たちの心に束縛してしまうには、あまりにも大きいお方です。
 私たちの愛がイエス様の大きな愛によって、一層成長していくことを願います。真の愛は、相手に対して抱いていた、愛に対する虚像と愛惜を打ち破ることを求めます。真の愛は、相手をありのまま受け入れることを求めます。
 愛が簡単に壊れるもう一つの理由は、相手に対する過度な期待です。あれほど命をかけてイエス様の後をついて回った人々、命をかけてイエス様への愛を誓った人々が、静かに皆去っていきました。イエス様の真のお姿を受け入れることができなかったためでした。
 彼らの目には英雄のようなイエス様の姿だけが映っていました。亡くなった人々をもあっという間に治癒させる「名医」イエス様だけが彼らにとってのイエス様でした。父である神の意思に従い、全てを置いて十字架の道を歩かなければならない、現実のイエス様のお姿には目もくれませんでした。敵の手に渡り、恥辱的な死を迎えなければならない苦しみの内にあるイエス様のお姿を、決して望みませんでした。人間的な愛が崩れるとき、私たちは別の愛に出会います。私たちに対する神の愛であり、神に対する私たちの愛です。私たちの愛がより一層深く、より永続的な愛となることを願っています。


# by shukugawachurch | 2024-09-01 10:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 謙遜について考えてみましょう。
 キリスト教徒を含め、多くの人は謙遜について、誤って認識しています。自分の価値を下げ、卑下することだと、また、自分には何の才能も能力もないと、自分を過大評価しないことだと、それが謙遜だと信じ込んでいます。
 しかし、このようなことは謙遜ではありません。聖アンブロジウスは、謙遜とは、「私はゴミのような存在です」というような自己卑下的な言葉ではいと説きました。謙遜とは、自分自身と自分自身に与えられた使命を十分に認識しているということです。それに相応(ふさわ)しい行動をとることです。最も完璧な謙遜の模範は、聖母マリア様です。
 聖母マリア様の祈り「マグニフィカト(マリアの賛歌)」を見ますと、マリア様がいかに謙遜でいらしたかが分かります。
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今
ら後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名(みな)は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」(ルカ 1・46‐50)
 聖母マリア様は「今から後、どの時代の人々もわたしを幸いな者と呼ぶでしょう」とおっしゃいました。ですが、誰も聖母マリア様を傲慢だとは非難しません。聖母マリア様は、神様がご自分になさったことをそのまま受け入れ、感謝し、神様を賛美するのです。
 聖母マリア様のように、神様にだけ心を向け、自分を無にすることが真の謙遜です。言い換えれば、私が私の人生の主人ではありません。神様が私の人生の主であり、私はその方の道具であることを自覚することが真の意味での謙遜であることを心に留めておきましょう。

# by shukugawachurch | 2024-07-27 21:00