カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch

再会や奇跡の聖母致命祭

                                                       
エリック・バウチスタ・デ・グスマン 神父
 先月、2月5日、前田万葉枢機卿様はフィリピンのイロコス・ノルテ州(Ilocos Norte)のラオアグ教区(Diocese of Laoag)の招待を頂き、バドックカトリック教会(Badoc Catholic Church)をお尋ねになりました。わたしは通訳として同行させて頂きました。前田枢機卿様は小教区の右の脇祭壇に安置される福者ユスト高山右近のご像を祝福するようにと頼まれました。左の脇祭壇には、マニラの聖ロレンソ・ルイスのご像が祝福されてから安置されました。
 2月5日はその小教区にとって、大きなお祝いの日でした。小教区の聖堂はフランシスコ教皇に小バジリカとして指定され、その小バジリカ指定は荘厳ミサの中で宣言され、お祝いされました。小バジリカという称号は、建てられた聖堂のスタイルと時代、そして、訪れる信者の人数などの条件を満たす特定の教会聖堂にのみ教皇様から与えられます。駐フィリピン教皇大使をはじめ、フィリピンのケヴェド枢機卿様とフィリピンの大司教区の大司教様方がお見えになりました。ミサの前に、前田枢機卿様によるご像の祝福式と安置式が行われ、その後、前田枢機卿様は枢機卿正装(赤いスータンにレースの白いスルプリ、スルプリの上に赤い肩掛け、肩掛けの上に金色の枢機卿用の十字架と頭には「ビレッタ」という赤い角帽)に着替えて、荘厳ミサを献げられました。
 その小教区に、「バドックの奇跡の聖母」(スペイン語では、「La Virgen Milagrosa de Badoc」)という有名な聖母子像が安置されています。お話によると、その聖母子像はもともと長崎のどこかの教会に安置されていたご像で、キリシタン迫害が始まったときに、長崎のキリシタンたちはそのご像が破壊されないために、1625年にそのご像を木の箱に入れて、舟でマニラへ送りました。マニラへ行く途中、木の箱が舟から落ちてしまって、バドックの周辺の浜辺で漁師たちに引き上げられたということでした。前田枢機卿様を招かれたラオアグ教区のマユグバ司教様は、前田枢機卿様に奇跡の聖母を是非見てほしいと仰おっしゃっていました。
 前田枢機卿様はミサの中でのご挨拶で、1614年にマニラで命をささげた高山右近と1637年に長崎で殉教されたロレンソ・ルイスは日本とフィリピンの宗教的・霊的なつながりの代表であること、そして、両国のこれからの絆がさらに強められ、深まることを期待していると仰おっしゃいました。また、2月5日は日本26聖人殉教者の祝日で、前田枢機卿様が日本の代表者として奇跡の聖母に出会ったことについて、「再会や奇跡の聖母致命祭」という俳句を詠まれました。

(致命祭とは日本26聖人殉教者が長崎で処刑された日を記念する日で、ちなみに春の季語です。)

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# by shukugawachurch | 2019-03-01 00:00

ルルドの聖マリア

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父
 2月11日は聖母マリアが14歳の少女ベルナデッタにご出現された記念日です。今では有名な巡礼地となって、年間500万人もの人が訪れます。貧しい家庭に生まれ、病弱であったベルナデッタにマリア様がご出現になったのは、今から160年ほど前の1858年2月11日のことでした。
 彼女はピレネー山脈の麓ルルドに生まれ育ちました。彼女は妹ともう一人の友人と一緒に薪を拾いに出かけ、川を渡るために靴下を脱ごうとしていた時、急に風の音を聞いて振り返ると、目の前の洞窟で優しい光が輝きました。じっと目をこらしたベルナデッタは、そこに美しい微笑みをたたえた一人の婦人が立っているのが見えました。真っ白な服に青い帯がしめられ、足の指の上には二つの黄色いバラがあり、腕にはロザリオが掛けられていました。ベルナデッタはロザリオを取り出し、一生懸命唱え、唱え終わると不思議とその姿は消えていたというのです。これが最初の出現の様子です。その後17回のご出現があったのです。
 後日、最初のご出現の様子を妹に話したことにより、すぐ家族や近所の人に知れ渡り、気が狂ったのではないかと、その事実をなかなか信じてもらえなかったのです。
 しかし、18回もの出現の中で、マリア様のメッセージが伝えられました。「罪を犯す人の代わりに償いを」、「回心するように」、「ここに聖堂を建てるように」、「祈りなさい」など。
 3月25日、聖母マリアは「私は無原罪の御宿りです」とその名を明かされました。聖母マリアの言葉どおり、土を掘ると泉がこんこんと湧き、その水に入ったり、飲んだりすることによって、重い病気が回復する奇跡が起こりました。4年後、教会の綿密な調査により、彼女は精神異常者でも嘘つきでもないことが証明され、1933年、ピオ十一世教皇より列聖されました。神はこの貧しい者の聖性を世に示してくださったのです。今、そのご遺体は無傷のまま、ガラス張りの棺の中に安置されています。私もヌヴェール修道院の聖堂に安置されている聖女ベルナデッタにお会いしました。

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# by shukugawachurch | 2019-02-01 00:00

ベトナムのお正月

                                                       
グエン・シン・サック 神父
 明けましておめでとうございます。昨年は色々な出来事を通して神様のお恵みを感謝致しました。今年も皆さまの上に神様が祝福を与え、健康と平和がありますように心よりお祈り申し上げます。
 ベトナムのお正月は日本とはまるで異なる雰囲気です。ベトナムのお正月は「テト」と言います。テトは旧暦に基づいて決められますので、毎年変わりますが、大体1月後半から2月半ばまでの間に当たります。
 ベトナムでは、テト休みは一番長い休みです。長い連休なので国内外で仕事する人も多いですが、やはりどちらかというと、どんなに忙しくても帰省して田舎で家族と過ごす若者がほとんどとなります。
 テトが近づくと、テトの花などの飾り物とお菓子、果物が、道でたくさん並んで売られます。それを見るだけでテトの雰囲気をいっぱい感じられるほど、街がとても賑わいます。テトの前には家族みんなで大掃除をしたり、家の中の飾りつけをしたり、料理の準備と買い物をしたりします。大晦日には家族そろって教会へ行き、一年間のお恵みを感謝しながら聖体礼拝を行っています。
 元旦も家族そろって教会へ行き、ミサに与ります。その時は一人ひとりが聖書のみ言葉を引いて、一年間の「道連れのみ言葉」とします。ミサが終わった後、家族のみんなで一緒にワインを飲んだり、少し食べたりして、お祝いします。そして、お年玉を渡す習慣もあります。基本的には、祖父母、親から孫、子どもへ、赤や金色の袋に入れて贈ります。元旦にお年玉をあげる習慣はずっと前からありました。今年も良いことがありますようにと願いをこめて、贈るのです。
 その後、子どもが親戚や近所の家にお祝いに行きます。テト元旦から3日までは親族訪問、近所訪問、先祖のお墓参りなどをします。元日は父方の祖父母の家に兄弟、孫たちが集まって一緒にお祝いします。2日は母方の祖父母の家でお祝いします。3日は子どもたちが先生の家を訪問し、いつも熱心に教えていただいていることに対する、感謝の気持ちでクラスの皆が集まって一緒にお祝いします。
 ベトナムのお正月はとても賑やかで雰囲気も温かいです。テトを通して家族の皆が食卓を囲んで談話をしたり、一年間の疲れを癒したりして、愛の絆が深く結び付きます。

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# by shukugawachurch | 2019-01-01 00:00

クリスマスのよろこび

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父
 クリスマスが近づくと、人々は恋人や友人など親しい方々にクリスマスプレゼントを差し上げます。もらう方はそれを受け取って嬉しくなります。そこに愛の息吹を感じます。与えるほうも受けるほうも嬉しくなり、心に愛の共鳴を感じます。愛は愛する相手に何かを与えたいのです。
 母の日や父の日に、小さな子どもがお母さんやお父さんの似顔絵を描いてプレゼントします。もらった親御さんはお金の価値がなくても嬉しく思い、喜ぶのです。それはその子が絵を通して、自分自身をお母さん、お父さんに与えているからです。
 キリストは「友のために生命を与えるよりも大きな愛はない」とおっしゃいました。愛の最高の現れは、自らを、生命までも与えることです。大切なお金やダイヤモンドを与えても、自分の持ち物を与えるだけでは、まだ十分とは言えません。自分自身を与えてこそ、愛は完全になるのです。神の最も素晴らしい愛のみ業は、神が自らを与えておられるということです。神は宇宙万物を創造されただけでなく、その中にご自分の生命を挿入し、この世と一体になろうとしておられるのです。これは、御父が御子と聖霊を派遣してくださることによって実現されます。
 イエス・キリストは、マリアから生まれた真まことの人間です。イエス・キリストは神であると同時に人間性をとられ、神人(しんじん)イエス・キリストとなられたのです。
 ヨハネは「父のふところにいる独り子である神」(ヨハネ1・18)、そして、神が人間となったこの神秘を「言(ことば)は肉(人間)となって」(ヨハネ1・14)と言っています。教会では、この神秘を「受肉(じゅにく)」とか「托身(たくしん)」という言葉で示しています。神の永遠の御子がマリアの胎内で一つの人間性と一体となり、一人の人間として、人類の歴史の中に入って来られたのです。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3・16)と言っています。つまり、神はご自分にとって最も大切な宝である御子を、人類に、その歴史の中心になるように送ってくださったのです。イエスは生涯を通して、ご自分の時間も身も心もすべてを捧げ、すべてを受け入れ、ついには十字架上で私たちの救いのために亡くなられたのです。しかし三日目に復活して永遠の生命に入られたのです。その姿は、私たちが互いに愛し合って、すべてを他者の幸福のために捧げて生きるようにとのメッセージだったのです。私たちはクリスマスにこのメッセージを分かち合いましょう。

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# by shukugawachurch | 2018-12-01 00:00
                                                       
エリック・バウチスタ・デ・グスマン神父
 聖ヨハネ・パウロ二世教皇は、教皇に選ばれたとき、58歳でお若かったし、山登りなどがご趣味で、とても健康的な方でした。きっと、長く教皇としてお務めになるだろうとよく言われていました。しかし、1981年5月13日に、バチカンの聖ペトロ広場で銃撃されて、奇跡的に命は助かりましたが、そのあと教皇様はずいぶん弱られました。徐々に悪化していた健康状態は見た目にもわかるようになりました。教皇様が歩かれるときに、杖を使い始めたのもその一つでした。最初は教皇様ご自身も、公の場で杖を使うのを遠慮なさったようでしたが、使い慣れてからは、杖と遊んでおられた教皇様のお姿も何回か公の場で見られました。
 2001年、教皇様はパーキンソン病と診断され、体も大分弱くなられ、バチカン近くの病院に運ばれて入院されることを繰り返されました。入院しても教皇様はすぐに退院をお望みになり、バチカンに帰ってすぐに仕事に取り組まれたそうです。大勢の人々に愛されていた教皇様は、ご自分のお部屋の窓から皆さんによくご挨拶をなさって、皆さんをいつも祝福されていました。このようなお体の状態で、これからも教皇様がお仕事を続けられるかどうか、話題となりましたが、教皇様はおやめになろうとはなさいませんでした。イエス様が十字架からお降りにならなかったように、教皇様も教皇の務めをおやめになりませんでした。
 しかし、教皇様は2005年、亡くなられる数か月前に、声が出なくなってしまわれました。何回も、お部屋の窓から皆さんにお姿をお見せくださいましたが、声が出なくて皆さんに挨拶さえもできなかったのは、どんなにお辛かったでしょう。2005年4月2日、教皇様は入院を固辞され、ずっとご自分のお部屋にとどまっておられました。病者の塗油を受け、バチカンの親しい友人や同僚に囲まれて、よくお祈りをしておられました。世界中の様々なところから来た信者もみんな聖ペトロ広場に集まり、教皇様のために一生懸命祈りをささげました。教皇様は祈りをささげてくれたすべての人々に次の言葉を述べ、感謝の気持ちを表されました。「わたしはあなた方のところに足を運んだ。今回、あなた方はわたしのためにここにやって来てくれた。わたしは嬉しくて感謝でいっぱいだ」。夜になると、教皇様は、「わたしを御父の家に帰らせてください」とおっしゃって、そのあと、息を引き取られました。教皇様はご自分が天国に行くことがきちんとわかっておられたようでした。
 このように、聖ヨハネ・パウロ二世教皇は、わたしたちに、どのように生きたらいいかだけではなく、さらにどのように死ねばいいかという模範を示してくださいました。今月は11月で、死者の月です。わたしたちより先にこの世を去った家族、親せき、友人、恩人のために祈りながら、わたしたちも「終末」について考える時間が与えられます。わたしたちのこの世の生涯は一時的なものであり、わたしたちの永遠の住処(すみか)は天にあります。この世の生涯を通して天に十分な宝を積んで、死が訪れるときには、教皇様と同じように、わたしたちも「御父の家に帰る」ことができるように、常に心の準備を致しましょう。
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# by shukugawachurch | 2018-11-01 00:00