カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch

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    世界宣教の日

エルサレムにいく途中、イエス様はイチジクの木を見ました。きれいな葉っぱがたくさんありましたが、実がなかった (普通イチジクの木は、実と葉っぱをたくさんつけるので、葉っぱがあるのに実がないことは不思議でその木は悪い木)。だから、イエス様はその木を呪いました(マタイ21:18,19)。
この理解しにくい話は基本的なことを強調しています。私たちはこのイチジクの木のようになる危険があります。実を結ぶより葉っぱを出すだけで満足する危険です。福音を皆に告げ知らせるより、宗教的な習慣が行うだけで満足する危険です。

宣教の日(毎年10月の第3の日曜日)はこの基本的な次元を思い出される祝日です。キリスト教徒はイエスに対する愛によって夢中になってみなにこの喜びを述べ伝える人です。これは私たちの毎日の生活の中になければ、まだ信仰がうすくて完全ではありません。みなに告げ知らせる望みは、信仰の計りです。信仰を伝えれば伝えるほど信仰を強められます。イエス様は教会を宣教のために成立しました。教会の本質は、宣教であると教皇ヨハネ・パウロ二世は強く主張しました。

なお、宣教と言えばすぐお金を思い出しますが、それだけでは足りません。もっと大事なことがあります。それは祈りです。
小さな花の聖テレサは、一生自分の修道院から出たことがないのに宣教の守護聖人になりました。というのは、聖テレサは、毎日一生懸命宣教と宣教師のために祈ったからです。聖テレサは宣教がうまくできなかったら、あるいはどこかであきらめる宣教師がいれば、私たちの祈りが十分ではないからだと言われました。だから、祈りは宣教に対して基本的な義務です。

もう一つのことは、言葉より模範によって福音をうまく述べ伝えることができることです。私たちは気がつかないうちに毎日の生き方を通して福音を述べています。福音と毎日の生活の間にある矛盾は宣教の一番大きな障壁です。毎日の生活の中でイエス様との出会いの喜びが輝いてなかったら宣教はできません。宣教は愛を通して行うべきです。
もちろん、私たちの小さないい行為を通して全世界が変わることはありませんが、そのいい行為をもらった人にとって大きな奇跡です。その人はキリスト教がどういうものであるか示されています。イエス様が言われたとおり、あなたがたは地の塩であり、世の光であるからです(マタイ5:13,14)。
                  ジョバンニ 神父


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by shukugawachurch | 2008-10-05 17:20