カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch
                                                       
エリック 神父様

 417日に夙川教会の助任司祭として着任されたエリック神父様にお話しを伺いました。

〈お名前は?〉

 わたしの名前はEric Bautista de Guzman(エリック・バウチスタ・デ・グスマン)です。de Guzmanは名字で、Bautistaはミドルネーム(母の名字)です。Ericは下の名前で、洗礼名でもあります。de Guzmanはドミニコ会の創立者の聖ドミニコの名字でもあります。Bautistaはスペイン語で「洗礼者」という意味です。Ericはスウェーデン王のエリック九世、聖エリック殉教者(祝日は5月18日)の名前です。

〈お生まれは?〉

 1981年、フィリピンのマニラで生まれました。

〈ご家族は?〉

 6人兄弟の一番上です。弟が1人、妹が4人います。長女は結婚しており、6才の息子がいます。父は3年前に帰天しましたが、母が元気で、毎日、孫の世話をしています。

〈召し出しを感じたのは?〉

 小学6年生の頃、小教区立小学校の神父様がわたしに小神学校の入学試験の話をしてくださり、その頃から自分にも召命があるかと考えはじめました。

〈司祭になるまでの道〉

 2012年から今年まで、6年間、日本カトリック神学院で養成を受け、多くの方々のお祈りと励ましに支えられて、2018年321日に司祭叙階の恵みをいただきました。

〈司祭としてモットー〉

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ146-47)。これはマリア様の歌、「マグニフィカット(Magnificat)」の冒頭のことばです。司祭としてのすべての言葉と行いを神様の栄光のためにささげたいと思います。

〈夙川教会の信徒に一言〉

 わたしを暖かい心で受け入れてくださり、いつも感謝しております。新司祭でわからないことがたくさんありますが、皆様と一緒に日々を楽しく過ごして参りたいと思います。これからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

【略歴】
1981
910日 フィリピン・マニラで生まれる
2004
41日  来日

     日本政府文部科学省から奨学金を受け、山形大学理工学研究科に入学

200741日 住友電装に入社
2009
41日 在大阪・神戸フィリピン共和国総領事館に転職
2012
41日 日本カトリック神学院に入学
2017
320日 大阪カテドラル聖マリア大聖堂にて助祭叙階
2018
321 大阪カテドラル聖マリア大聖堂にて司祭叙階
2018
417 夙川教会に助任司祭として着任


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# by shukugawachurch | 2018-06-01 00:00

エマオへ旅する弟子

                                                       
ペトロ 楳原 彰 神父


 主イエスのご復活を心よりお祝い申し上げます。今年も13名の洗礼志願者が洗礼・堅信・聖体の秘跡を受けられ、夙川教会の共同体に加わり、私たちの家族に迎えられたのです。私 は復活祭を皆さんと共に味わいたいのです。

 イエスの復活された日曜日の夕方、二人の弟子の顔は暗く、悲壮感に満ちていました。それもそのはず、三日前に大きな期待を持っていた先生が、十字架にかけられ亡くなられたのです。彼らはイエスの説教を聴き、イエスが病人を癒し、死者を甦らせ、飢えた人にはパンを与え、イエスの力強さに感服していたのです。この方こそ救い主メシアであると信じていました。しかしイエスの十字架上の死によって、すべての希望が崩れ去りました。彼らはすべての希望を失い、諦めて、光のない生活に戻ろうとしていました。しかし彼らはイエスのことを忘れることができず、重苦しい足どりで夕暮れの道を歩きながらイエスのことを語り合っていました。突然、見知らぬ旅人が、彼らの傍そばを歩いてくださっていたのです。その旅人こそ実はイエスであったのですが、彼らは見知らぬ旅人に「私たちはあの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と言ったのです。そこで旅人は彼らに「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないのか」と。そして旅人は、モーセとすべての預言者の書から始めて、聖書全体にわたり、そのメシアについて書いてあることを説明したのです。二人の弟子が後で語り合ったように、この説明を聴きながら、彼らの心は燃え上がり始めました。三人がエマオに着いた時、ちょうど日が沈みかけていました。旅人は先に行こうとする様子だったので、二人は「いっしょにお泊りください」と旅人を家に泊まるように招くのです。

 食卓に着くとパンが出されました。すると突然、客として招かれた旅人がパンを手で分け、彼らに渡します。するとその瞬間に二人の目が開け、この旅人が復活したイエスにほかならないと彼らは悟るのです。弟子たちに復活の喜びをもたらすというイエスの目的は達成され、その瞬間、イエスは彼らの面前から消えたのです。この二人の弟子の心には大きな喜びの炎が燃え上がりました。彼らは長い旅の疲れを忘れ、エルサレムに走り帰ります。悲しみの心でエルサレムを去って行った時の二人の姿と、今喜び勇んで走り帰った彼らの姿との間には、どれ程の相違があったでしょうか。彼らは主がパンを手で分けた時、イエスだと分かった次第を他の弟子たちに話しました。弟子たちは皆すでに興奮しており、「本当に主は復活して、シモン・ペトロに現れた」ということを告げ、復活の喜びを分かち合ったのです。

 現代の私たちキリスト者も「主は復活された」と喜びを分かち合いたいと思います。

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# by shukugawachurch | 2018-04-01 00:00

罪を見極める方法

                                                       
グエン・シン・サック神父 

罪があるかないかを見極めることは、ゆるしの秘跡を受けるために必要です。

 現在の教会はどこでも悲しい状況にあります。昔のように、毎週末に告解をする人はほとんどいません。おそらく、人々はもはや罪と罪の危険を正しく認識していないからでしょう。したがって、人間の弱さによって犯された罪の赦しを求め、父なる神に近づくためにゆるしの秘跡によって霊的生活の恵みをいただくことが必要であるとは思わないのです。神はすべての人を愛していますが、すべての罪を憎むのです。なぜなら、罪は神の愛の性質に反するからです。

罪の現実

 まず個人的、家庭的、社会的、国際的な生活の中で罪を特定する必要があります。

 個人的な罪としては、嫉妬、他人の欠点を公に言いふらすこと、怒り、愛への背き、欲望、姦淫、盗み、物質的な物の崇拝、不道徳などがあります。多くのカトリック信者が罪を犯しています。しかし、それを自分で知っているのかどうかです。神様の子どもとして信仰を持って生きることで、罪を避けることがとても大切です。

 私たちは個人的、家庭的、社会的、世俗的な生活の中にあって、誰しも罪を否定することができません。現実の罪を知り、認めなければなりません。

 具体的に言うと、例えば毎年、アメリカでは胎児を中絶によって数万以上殺しています。そのような行いはすべての命を滅ぼし、命の源である神様に対する恐ろしい犯罪です。離婚は家族の幸福と結婚の目的を破壊しています。神様は人類の創造において神様と共に協力するために、結婚生活を確立しました。その目的は永遠に続くのです。

 また、世界のあらゆるところで賭博や売春などの罪を犯しています。特に貧しい国でそれは起きています。これは非常に深刻な道徳的、倫理的なかたよりであり、すぐに改善することは不可能です。また、個人の利益のため、自分の欲望を満たすため、女性と子どもたちが売春の犠牲になっています。これらは非常に悲惨なことです。

 もし自分には罪が無いと思うなら、ヨハネの言葉に耳を傾けましょう。

「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません」(1ヨハネ 18

 罪を認めるためには〈神様が寛容で慈しみ深い方である〉ことを信じることが必要です。悪魔が私たちのあらゆる行いの中で、神様に敵対するように誘惑することは少なくありません。私たちがそのような環境の中で弱くなった時に犯した罪について、神様の赦しを願い続けることが必要です。しかし、赦しをいただくためには自分の罪を認めることが必要です。永遠の命に入れますように、罪を犯した私を赦し、また罪への誘惑から私を守り、真の救いの道を歩むことができますように、と願うのです。

「そのようにこれらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない」(マタイ 1814

 主イエスはゆるしの秘跡を弟子たちと教会に定めてくださいました。

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコ 328-29

ですから、罪を犯した者はゆるしの秘跡を受ける必要があります。

 では、赦しをいただくために、どのようにゆるしの秘跡を受けたらよいでしょう。

 まず、真に悔い改めて、神様と他人に犯した罪を認識できなければなりません。

この点について、教会の教義は次のように教えています。

「悔い改めは教会の最初の行為です。これは魂の痛みであり、将来罪を犯さないように決心するのです」( カトリック教会のカテキズム 1451)

 罪を認識して誠実に悔い改めた後、ゆるしの秘跡を受ける者は、罪を赦す権能を持つ司祭に告白します。

 フランシスコ教皇は、20141010日のミサの説教の中で、「魂を守る最良の方法は、毎日、良心の糾明をし、自分の心を振り返ることが大事です。神様と他人に対する正しくない行いを振り返ることが欠かせません」とおっしゃっています。

良心の糾明の方法

・私は困難に遭った時、神様のもとに立ち帰りますか

・私は定められた祝日のミサと日曜日のミサに参加していますか

・私は朝と夜の祈りをしていますか

・私はカトリック信者であることを恥ずかしいと思っていませんか

・私は神様の計らいにさからうことがありますか

・私は嫉妬、怒り、偏見を持っていませんか

・私は誰に対しても同じように忠実や平等ですか

・私は結婚生活や家庭生活において、福音の教えに従って生きていますか

・私は父母を尊重していますか

・私は環境を大事にしていますか

・私は妊娠中絶を行ったり、勧めたり、協力したことがありますか

・私は神と富の両方に仕えることをしていませんか

・私は過食、喫煙、浪費をしていませんか

・私は物質的な生活や富について過度に心配していませんか

・私はどのように時間を使っていますか、怠惰ではありませんか

・私は人が私に仕えることを求めていませんか

・私は復讐を望んでいませんか、憎しみを育んでいませんか

・私は優しく、謙遜に平和を築き上げていますか

 教皇様は、カトリック教徒は誰しも、ゆるしの秘跡を受ける必要があるとおっしゃっています。私たちは自分の思い、考えによって、福音に反する生き方をしているのです。犯した罪を赦していただかなければならないので、告白する必要があると述べました。

 告白は誠実な回心です。神様に信頼して、赦しを願い求めます。悔い改めることにより、神様と共に神様の道を歩んでいくのです。

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# by shukugawachurch | 2018-03-01 00:00

「祈り」の注文

                                                       
コーナン・ミシェル 神父

先月、ミサ中、梅原神父様は気分が悪くなって参加していた信者は心配しました。頑張る神父様は、ミサを無事に終わりまでなさいましたが、すぐに点滴治療を受けられ、さすがに次のミサを捧げることには、ドクターストップがかかりました。

私は、甲子園教会でミサを捧げ、帰ってくるなり信者さんから知らされ、驚きました。どうしようかと心配しましたが、夙川で初めて集会祭儀が行われたそうです。そして、梅原神父様はにこにこしながら現れました。幸いに早く元気が戻って、入院しなくてすんだのです。神に感謝。

サック神父様はベトナム人のミサの為に出かけていましたし、夙川の小教区には3人の司祭がいるとはいえ、それぞれに日曜日は忙しいのです。全国的に現在、司祭がいても年寄りでない司祭が少ないのが現状です。そして、これからもこのようなことがあり得ると考えられます。ですから、今回このような迅速な対処ができたことは、信徒の方々が、日頃から、自分の時間と知恵、技術を使ってくださっていることが、教会を支えるエネルギーになっているのだと、私は嬉しく思います。教会学校のリーダーの活動、レジオマリエの病人訪問、社会活動の奉仕、また、聖書研究やカテキズムの勉強会、小教区には活気があります。

ところで、毎日の仕事で忙しすぎて、教会と距離がある人は、このような話を聞いて自分には無理だと思う人もいるでしょう。しかし、その方々こそ、教会にとっては大事な存在だと、私は言いたいのです。

教会の色々なお手伝いができなくても、赤ちゃんに哺乳瓶でミルクを飲ませる時、会社勤めで担当した仕事をこなす時、学生が宿題する時、家族のための食事を作る時、団らんする時、すべての瞬間に祈ることができると私は信じます。日常の些細な出来事の中で、神様に話しかける祈りを、神様は見逃されません。例えば、会社の廊下を歩く間に何秒間だけでも、神様、仕事がうまくできて感謝。赤ちゃんの体を洗う時お母さんは、マリア様あなたも同じようにイエス様の体を洗われたのですね、赤ちゃんの命を下さって感謝。この宿題は自分のためだけではなく、学びたくても学べない人のために頑張ります。など。このような祈り方を皆さんにお勧めいたします。

信仰の恵みをいただいた私たちが、そういう風に、絶えず祈れば、神様をもっと親しく近くに感じることができるようになり、ミサ以外にも、教会の活動以外にも、ひっそりとご聖体を訪問したくなりますよ。このような祈りこそ、神様が最も喜ばれる祈りなのですから。


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# by shukugawachurch | 2018-02-01 00:00

子犬もパン屑を食べます

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父

 イエスのご降誕祭と新年のお慶びを申し上げます。今年は戌年です。

 聖書には犬という言葉は全部で54回登場します。そのうち45回は旧約聖書に、9回は新約聖書に出てきます。

 聖書の世界では、一般的に犬というのは、あまり良いイメージの動物ではありません。今日のように人間の手助けをする忠実な動物というよりも、むしろ野良犬や山犬のような汚く、危険な動物のようです。犬や豚は、モーセの律法の下では汚れた動物とされていました(レビ1127)。そのため律法の下で生きるユダヤ人にとっては、汚れを意味する印象のよくない動物たちです。箴言2611節に「犬が自分の吐いた物に戻ってくるように、愚かな者は自分の愚かさを繰り返す」とあります。古代において、犬は好んで汚物とまみれる動物とみなされていました。下劣な人がかたくなに悪業を続け、愚かな人が愚かさに安住することを告発するためにしばしば引用されます。Ⅱペトロ2章には、救いの道を受け入れた後、再びそれを捨ててしまった人々を非難するために、このことわざが引用されています。

 マタイ1521節以下のところで、カナン(異邦人)の女が現れ、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びます。しかし、それに対しイエスは一言もお答えにならず、そのうえ、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになります。しかし女はイエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と願います。イエスが「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになると、女は「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。

 パンは神の救いの恵みを、子供は選民イスラエルを、子犬は異邦人を指しています。まず子どもが食べるべきだ。それはお言葉どおりです。しかし子どもが食べ飽き、パン屑を落とし始めたら、それを子犬が食べてはいけないのだろうか、と女は言いたいのです。子犬は愛玩用に飼われるかわいい犬で、イエスは異邦人の娘を表すのに子犬という言葉を用いておられます。家庭用のかわいい子犬、すなわち家の中で飼われている子犬です。それで、食卓から落ちるパン屑は、愛されているペットなら当然食べてもいいではないかと言いたかったのです。子どものパンを与えるという言葉を発展させて、食卓を囲む宴会という光景、メシアの救いを宴会にたとえたのです。彼女は、このメシア的宴会のパンはむろん選民イスラエルにまず十分に与えられるべきだということを認めます。しかし「主よ、お助けください」と叫んでいる自分のような異邦人は、宴会の主人や客人でなくても、飼い犬くらいの位置は認められるのではないかと言いたいのです。メシアのパンが子どもに多すぎて、食卓からこぼれるほど豊かであるとの信仰です。子犬ぐらい十分養えるだけの、こぼれるほど豊かな恵みをお持ちだというのです。メシアは今、子犬のいる異邦の地まで来ておられるということです。メシアの恵み(イエスの十字架の贖い)は、全世界、全民族、全国民にあふれて注がれています。私たちも洗礼、堅信、聖体の恵みによって、イエスの救いのあふれる豊かさに与っています。私たちもイエスに愛され、イエスと共に、今年も信仰の道を歩んで行きましょう。子犬である私たちも、イエスからたくさんの恵みをいただけるのです。


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# by shukugawachurch | 2018-01-01 00:00