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カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch
                                                     
ペトロ 梅原 彰 神父

 教会は主のご降誕祭の十二日目にイエスのご公現祭をお祝いします。私はクリスマスに受洗できなかったので、一人、主のご公現祭に受洗しました。イエスはイスラエル人の救い主だけではなく、あらゆる国民、民族、すなわち全人類の救い主としてこの世に来てくださったのです。アダムが原罪の罪を犯して、神と人との間に溝ができ、神のみ手が差し伸べられない限り、私たちは神の家族に迎え入れられないのです。しかし、神は人を愛し、ひとり子イエスを、この世に救い主として送ってくださったのです。にもかかわらず、ユダヤ人の羊飼いを除いて、ユダヤ人は誰もイエスを拝みに行きませんでした。このことは大変不思議なことです。しかしそれにも増して不思議なのは、異邦人の東の国の占星術の学者たちが、聖書のことも詳しく知らないのに、メシアが生まれたことを朧(おぼろ)げに心の中で感じ、その招きに応えて、確かなことを知らないままに、何日間もの長い旅路に出発したのです。やっとエルサレムに着いた学者たちは、ユダヤ人の王が生まれたのですから、皆が喜んでいると思ったのですが、誰一人としてメシアの誕生を喜んでいません。びっくりもし、がっかりもしながら星の示してくれる処まで行きました。やっと救い主の前に平伏した時、言葉で表すことのできないほどの素晴らしい喜びと慰めを感じながらこの赤ちゃんは神様から送られたひとり子だと認め、信じ、礼拝しました。東の国の占星術の学者たちが不思議な星の導きによってイエスに出会ったように、私たちの人生においても、いろいろな人との出会い、本や音楽、芸術など、様々な摂理によってキリストに出会うことができるのです。ある人は神父やシスターとの出会いによってキリストに出会い、信仰に導かれます。ある人は音楽と出会いキリスト者となるのです。
 かつて私が若い司祭であった時、一人の青年が教会を訪ね、「神父さん、グレゴリオ聖歌を聞かせてください。私はグレゴリオ聖歌に興味があります」。当時、私の持っていたグレゴリオ聖歌のレコードを彼と一緒に聞き、それがきっかけで彼はキリスト教信仰を学び、後に受洗の恵みにあずかりました。神は本当にいろいろな方法で、いろいろな手段を使って、ご自分の方へ導いてくださっているのです。


# by shukugawachurch | 2022-01-01 09:00

初心

                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 皆さん!! 初心(しょしん)を覚えていますか? 新しい年が明けて、一年を良く過ごすため自ら念押しをした初心。新しい学校に入学してこれから共にする友達を見ながら持った初心。就職して新しい職場に出勤した日の朝、鏡の前でときめきながら立っていた自分自身の顔を見て持った初心。まだ覚えていますか?
 この世に生まれ、私の指を握っていた小さな赤ちゃんの温もりを感じながら持った新しい人生?命?に対する初心。恐れもありましたがときめきがもっと大きかった洗礼式(秘跡)の時、神様の前で持った?誓った?初心。今朝目覚めながら新しい一日を与えてくださった神様に感謝して持った初心。皆さんは覚えていますか?
 私たちは毎瞬間、全てのところ(席)で初心を持ちます。しかし、その初心を覚え続けることは決して生易しいことではありません。私たちが歩んで行く人生という道は、真っ直ぐに、そして正しく伸びている平地だけではありません。時には高低差が激しいでこぼこな道も、また近づきたくない茨の道も、そして思ったより大回りするようになる(遠回りさせる)くねくねと曲がった道もあります。
 しかし、私たちが人生という海の上で迷子になってしまった時、私たちの道を照らしてくださる灯台、つまり、あらゆる出発点で自ら決めたその初心を思い出せば(記憶すれば)、私たちはいつでも最初(初め、元)に戻ることができます。
 私の知り合いの中に、自分自身の初心を今までただ一瞬も忘れず(完全に)守って来られた方がおられます。その初心のため蔑視され、時には漫罵(まんば)され、また無視され、殴られたこともあります。しかし、自分の初心を忘れず、いつもその場で私たちを待ってくださいます。もしかすると、街の派手やかな灯りに隠され見ることのできなかったあの方のお姿、楽しいキャロルに遮られ聞くことのできなかったあの方のみ声 …。
今度のクリスマスはあの方のお姿とみ声に自分の目を開き、耳を傾けたらどうかと思います。2022回目で変わることのない初心を持って、もうすぐ私たちのところに来られるあの方のため、各自の心に小さな飼い葉桶を置く席を備えてみたらどうかと思います。たまにはあなたを忘れてしまう私たちにもかかわらず、相変わらずそういう風な私たちを気遣ってくださるあの方の初心に感謝を捧げます。
 主の嬉しいご降誕おめでとうございます。


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# by shukugawachurch | 2021-12-01 09:00

11月は死者の月

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父
 11月になると山々が紅葉し、風に吹かれて落葉する姿を見ると、なんとなくもの悲しく思います。カトリック教会は11月を死者の月とし、墓参して亡くなった人々を思い起こし、祈りを捧げる、美しい習慣があります。
 亡くなった時、神の恵みと神との親しい交わりを持っていながら、小さな罪や罪の償いができていない状態で亡くなる人は、永遠の救いこそ保証されているものの、死後すぐ天国の喜びに入ることはできないのです。そうした人たちは、天国に入る前にある浄化の苦しみを受けます。こうした状態で亡くなる人たちがいるのが煉獄です。そのため、ある軽い罪は浄化されるため、煉獄に留まるのです。この人たちは心の浄化を受けた後、天国に入れるのです。
 旧約聖書のマカバイ記に、「死者が罪から解かれるよう彼らのために贖いのいけにえを献げたのである」(2マカバイ12・45)とあります。
 教会は死者のために祈り、感謝のいけにえを捧げてきました。それは死者が清められて、神の至福直観に至ることができるためです。教会は死者のために施し、免償、償いの業を勧めています。
 聖ヨハネ・クリゾストムは「死者を助け、追悼を行いましょう。ヨブの息子たちが父親のいけにえによって清められたのなら、私たちはなぜ、死者のための供え物が死者に何らかの慰めをもたらすことを疑うのでしょうか。ためらわずに死んだ人々を助け、彼らのために祈りを捧げましょう」と教えています。
 天国にまっすぐに行ける人も、地獄に落とされる人も、少ないと思います。多くの人が煉獄を通って天国に行けるのです。従って、煉獄にいる人々がいち早く天国に行けるよう、祈りや施しや犠牲を彼らのために捧げるのは、私たちの務めです。

# by shukugawachurch | 2021-11-01 09:00

コロナと信仰

                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
カトリック夙川教会月報2021年9月・10月号(10月1日発行)

 私たちは今、コロナで多くのこと
が急激に変わる毎日を過ごしています。
 人と人の間には距離を置くことになり、その距離の間には目に見えない壁があるようにも感じられます。みんながマスクを着用することで、お互いに相手の表情や気持ちが分かりにくくなり、人と会うことを控えることもあります。会社や学校のシステムが変わり、レストランなどお店の営業時間も変わっています。
 コロナ感染の拡大防止のためにはいろんなことを変えざるを得ないことは仕方ないことですが、その中でも、変わってはいけないものまで変えてしまうようにも感じます。 それは私たちの信仰ではないかと思います。 信仰というものが目に見えるものではないので、自分で判断するしかありません。
 「教会に行きたいけど、人が集まるのが怖いです」、「ネットでミサに参加しているので、心配しなくて大丈夫です」などの信者たちの声に、ミサも一つの番組のように変わってしまうかもしれないと思ってしまいます。もしかしたら、司祭も、より多くの方々がインターネットでミサを見られるように案内し、「いいね」と「登録」を叫ばなければならない時代になっていくのではないかと思います。
 「何より大事な聖体を受けるためには教会のミサに参加するのが一番です」という言葉に、「聖体もUber eatで家まで届けてくれるといいですね」と冗談なのに笑えない現実。いつかこれが現実になってしまうのではないか?と心配が先に立ちます。信仰に対する私たちの心や形が変わるのではなく、それによって、もっと簡単で楽なことを探す私たちの「心」が変わっているからです。 コロナは私たちの体だけではなく、私たちの心までも感染させる恐ろしいウイルスであることを改めて実感します。
 これから始まる四旬節。 復活の栄光を準備する大変な時期になります。私たちも、コロナパンデミックが終わり、新たな時代への復活を待ちながら、教会に行けない状況であっても、心のコロナ感染を防ぐための「お祈りというワクチン」で私たちみんなが自分自身を守る時期であることをお祈りしたいと思います。


# by shukugawachurch | 2021-10-01 00:00

聖母マリアの被昇天祭

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父
カトリック夙川教会月報(2021年7月・8月号、2021年8月8日発行)
 
 8月15日は終戦記念日です。この日は聖母マリアの被昇天の祭日です。聖母マリアは生涯を終えられた後、体は腐敗することなく復活の恵みにあずかり、心も体も一体となって天国に旅立たれたのです。これは、神の聖母マリアに対する最大の賜物です。これは、12月8日に祝われる聖母マリアの無原罪のもたらす恵みです。
 私たち人間は皆、原罪の罪をもって生まれてきます。聖母マリアは、その原罪をまぬがれ、「無原罪」でお生まれになったのです。それは神の特別な恵みによるものです。神の子イエズスが人間となってこの世に来られるのに相応しい胎(たい)を準備して、マリアさまは原罪をまぬがれたのです。私たちは、この恵みをお受けになったマリアさまを讃美します。マリアさまは原罪がなかったので、罪を犯すこともなく、愛の人として、出会う人々に優しさを与え、生涯全く清く生きられたのです。だからこそ神はマリアさまを天国に全き人間として迎え、マリア様は心も体も一体となって、天国でイエズスとともに喜びのうちに生き、私たちのためにたくさんの恵みを取り次いでくださるのです。
 聖母マリアの被昇天の信仰から、私たちにも大きな希望が湧いてきます。私たちも世の終わりが来て、肉体の復活の恵みにあずかり、公審判の後、清く生きた人は皆、マリアさまと同じように、肉体も天国の栄光にあずかることができるのです。マリアさまの被昇天は、私たちの将来の栄光を受ける前しるしと言えます。
 今日、マリアさまの被昇天祭を祝いながら、私たちもマリアさまと同じ恵みにあずかれますよう祈りましょう。
 1950年11月1日、諸聖人の祝日に、教皇ピオ十二世は、「神の無原罪の御母、終生処女マリアが地上の生活を終えて霊魂と同時に身体も天の栄光に上げられた」と、聖母の被昇天を信仰箇条として宣言されたのです。

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# by shukugawachurch | 2021-08-08 00:00