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カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 韓国にいた時、教会の団体で認知症検査を受ける機会がありました。 周りから冗談半分で勧められ、興味が湧いてきたので予約しました。
 当日は、お医者さんが来て検査が始まりました。 順番が来て検査室に入りました。椅子に座ると、お医者さんから3つの言葉が提示されました。「栗の木」「ほうれん草」「サバ」、3回声を出して言い、後で聞くから覚えておくように言われました。 その時、隣の検査室の声が聞こえました。「さくらんぼ」「鉄の釜」「ベイカ」、部屋ごとに指定の言葉が違うんだと思いました。
 次は100から3ずつ引く検査でした。97…94…91……1まで、順調です 私はまだ若いから認知症の検査は楽だな〜と思いました。
 次にお医者さんにいくつかの質問をされました。「おいくつですか」 「〇〇歳です」。「今年は何年ですか?」「2000年です」。「今は何月ですか」「9月です」。「今日は何日ですか?」「3日です」。「お住まいの住所をおっしゃってください」「〇〇…〇〇カトリック教会です」。
 次に、「先ほど覚えた3つの言葉を言ってください」と言われました。 突然出てきた質問に、「え~!?」と頭が真っ白になりました。気を取り直して思い出そうとしましたが、 私の頭には、隣の部屋の言葉「さくらんぼ」「鉄の釜」「ベイカ」、これしか思い出せませんでした。
 私たちの信仰も同じだと思います。 私たちは自分たちのカトリック教会についてよく知っていると思っています。そして熱心だと思っています。しかし、私たちは思っている以上に外の世界に気が向きます。そして自分の信仰より隣の人の信仰を見て、比べたり顔色をうかがったりします。
 私が覚えておかなければならない「栗の木」「ほうれん草」「サバ」ではなく、「さくらんぼ」「鉄の釜」「ベイカ」を頭の中に入れています。 それで信仰の道に迷ってしまいます。
 このように、体は教会に向かいながらも、心は別の場所に向かう「信仰の認知症」という病気を患っているのではないかと考えてみましょう。
 私たち一人ひとりが足を運ぶべき信仰の道しるべ「聖父(ちち」「聖子(こ)」「聖霊(せいれい)」をきちんと覚えてついて行く力を、祈り求めましょう。


# by shukugawachurch | 2023-09-03 10:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 真冬の厳しい寒さの中で人は春の日差しを待ちます。 真夏の蒸し暑い時は秋の涼しい風を待ちます。 このように、私たちは日常の中で常に何かを望み、待ち続けます。
 信仰者にとって生きていくということはどのような意味を持つのか、真剣に考える時間を数分でも持っておられるでしょうか。キリスト信者であるという自覚と教会共同体の一員としての責任感が何より大切だと感じます。
十字架を背負ってイエス様に従う姿勢どころか、世の中のものに阻はばまれ、イエス様を忘れて生きていく私たちの姿…。司祭の説教はただの流れる時間の一部であり、イエス様の聖体はもしかしたらミサに参加したご褒美のようなものに思われがちです。
 信者が多い教会としての誇りと伝統と歴史ある素晴らしい教会という名声にもかかわらず、心からキリストの弟子としての道を歩む信仰者の人数は増えない事実を様々なことから実感しています。
 日曜学校よりは学校の部活動や塾に行くことを大切にする世の中です。聖母の被昇天を祝うよりは夏休みやお盆休みがより優先される世の中です。
 その一方で、心が苦しい時、人生で辛いことがある時、何かの決断が必要な時は忘れず訪れるのが教会です。心の救急病院のように…。
 神様がおっしゃることには耳を閉じて、自分が望むことだけを吐き出す信仰生活です。
 誰よりも自分や家族の幸せを望み、良い成績、良い職場、良い配偶者、良い家庭を築くことを望みます。そのための祈りを口実に、何度も神様を探します。そして天国を願い、助けを望みます。
 聞いて嬉しい言葉や褒め言葉には喜んで答えますが、そうでない言葉には耳を閉じて無視します。自分の子どもは何よりも大切なのに、あなたの子どもを私たちのために十字架の上にかけよと叫びます。
 その私たちを今も待ち続けておられる神様です。寒い冬の後の春の日差しのように…、真夏の蒸し暑さの後の秋の涼しい風のように…。

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# by shukugawachurch | 2023-07-22 18:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 日本語学校に通っていた時、外国人の友達と日本の文化について話をしていると、必ずと言ってもいいほどよく話題になることの一つが自販機文化です。 韓国や他の国にも自動販売機はありますが、設置数はもちろん種類から見ても日本がトップです。他の国ではほとんど飲み物に限られていますが、日本はお酒、タバコ、アイスクリーム、さらに最近は唐揚げや餃子など、数え切れないほどの種類が次々と出ています。 このような自販機文化があまりない国の留学生たちにとっては、とても便利でありがたいものだと感じます。
 しかし、日本での生活が長くなればなるほど、留学生にとっても自販機文化は特別なものではなくなっていきます。いつもそこにある、当たり前のものだと感じ、ありがたいと思う気持ちが薄まります。逆に、探している時に見つからなかったり、目に入らなかったりするとイライラしてしまうことさえあります。感謝すべきなのに感謝できず、むしろ不満を感じてしまうのです。
 もしかしたら、これが私たちの信仰の姿ではないでしょうか。神様はいつも私たちのそばにいらっしゃるので、その大切さを感じられないのです。 自分が必要な時にだけ訪ねて、欲しいものだけを要求して帰る。自分が必要な時に、必要なところにいないと、イライラしてしまう。そして、 次に自分が必要に思うまでは、いとも簡単に忘れてしまう。私たちのそばにいらっしゃる、私たちが接する神様が、そのような存在になってしまっているのだと思います。
 私の机の前に貼ってある「新年の祈り」という紙に、毎月の祈りが書かれています。 6月は「私の心が謙虚になるように。人を大切にし、誇りと傲慢から私の心が遠ざかるようにしてください」と書かれています。 私が謙虚でないのは、傲慢だからです。私自身が自分を誇り、すべてに感謝できないのは、すべてをくださった神様が私の中にいらっしゃらないからです。
 新しく始まる6月。今月はもう少し謙虚な姿で、必要に迫られるときだけでなく、関心と愛をもって神様を訪ねる時間が増える一ヶ月になることを願っています。

# by shukugawachurch | 2023-06-11 10:00

聖母月

                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、
感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(1テサロニケ 5・16-18)
 周りの状況に関係なく、常に喜び、いつも祈り、いつも感謝する人生を送りなさいということです。 この生き方をする時、平和な人生だと思います。 このような平和は純粋に神様からの贈り物です。 数年前の教皇に関する記事のタイトルが面白いです。
“教皇様は聖ペトロの聖殿で聖なるロザリオで祈りのマラソンを始めます”
 「祈りのマラソン」という言葉が心に残っています。私たちはどんな祈りで教皇様の「祈りのマラソン」に一緒に参加しなければならないでしょうか?
 聖母を象徴するバラが最も満開になる5月を、カトリック教会は聖母月と定めています。
 私たちがよく祈る「ロザリオ」はバラの花冠(はなかんむり)を意味するラテン語です。初代教会の迫害の時代、殉教者たちにバラで編んだ冠をかぶせました。 殉教者たちの死の前で彼らがかぶったバラの花一つ一つに「アヴェ・マリアの祈り」を捧げたのがロザリオの由来です。
 こんなに悲しいけど、何より美しいロザリオの祈り。
 息子の死の前でも黙々と祈りを捧げた信仰の模範である聖母に倣ならって捧げる祈りがまさにロザリオの祈りです。
 私たちはカトリック信者として生きながら、果たしてバラの冠を作って聖母に奉献しているでしょうか?
 バラの一花一花、聖母への花が冠となる時、ロザリオの祈りが完成します。 私のために、家族のために、隣人のために、何よりも私たちの救い主イエス様のために、5月の一ヶ月は聖母とともにバラの花冠を作る時間を持つのはいかがでしょうか。

# by shukugawachurch | 2023-05-01 09:00

受洗者の迎え方

                                                       
ポポン・エマニュエル 神父
 復活祭の時に洗礼を受ける人をどのように迎え入れるのがいいのでしょうか。受洗者に、教会の習慣を教える義務があるのではないでしょうか。そうしないとその人が間違ったことをしてしまうかもしれません。また教会を維持することを考えると、色々なことを教えないと、教会が継続できなくなるおそれもあります。つまり、新入社員と同じように受洗者にも訓練が必要です。それは当前のことですが、受洗者を新入社員だと勘違いしてはいけません。洗礼を受けることは、簡単に言えば、イエスとともに歩むという聖霊の呼びかけに答えるということです。人の心の中で働く聖霊は、各人を神の子どもになるように導いてくださいます。洗礼を受けるまでは、自分の心に従っていました。それなのに、どうして洗礼を受けてから人の教えに従わなければなりませんか?
 受洗者に教える時に気をつけなければならないことが一つあります。それは、教えようとする人が神の代理になってしまうという過あやまちです。特にその教会での習慣を教える時に。人間のルールを教えるのか、その人の自由を支える教えを伝えるかを見分けるように努力しましょう。それは受洗者を人間のルールに縛らないためです。社会のルールは人間のルールであることがはっきりわかります。一方、教会の中のルールは、人間が考えたのに、神のルールにしてしまう可能性が高いです。それはイエスとファリサイ派とが言い争ったことからよくわかるでしょう。
 教会の習慣と聖霊の導きを混同してはいけません。「ここの信者になるためにこうしてください」と教える時に、それが人間の習慣だとはっきり意識しましょう。そして、その習慣を守らなければ信者じゃないというような裁きの言葉を言わないように気をつけましょう。
 教会は神が維持するものです。私たちが維持するものではありません。受洗者が洗礼を受けたのは、習慣を守って教会を維持するためだという考えを避けましょう。教会は、イエスに結ばれて世の中を歩む人の集まりです。教会の使命は、人間が作ったルールに従うように教えるのではなく、むしろ、イエスの愛とイエスの奉仕の精神に従うように、お互いに励み合う場所です。「ここの教会ではこうしています」という言葉を聞くたびに、いつも違和感を持ちます。
神の子どもとしての自由を達するための教えや勧めはふさわしいと思いますが、習慣や活動について教える時には特に気をつけましょう。
 受洗者をはじめ、お互いにとってどんな共同体でありたいかを改めて考えましょう。人を迎え入れ、聖霊の自由を生かす共同体であるように常に神の導きを願いましょう。
 それこそ受洗した兄弟姉妹に対して模範になるに違いないです。

# by shukugawachurch | 2023-04-02 09:32