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カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch
 今から百五十年程前の一八五八年二月十一日、フランスとスペインの国境ピレネー山脈の中ほどにあるルルドという町で、聖母マリアが聖女ベルナデツタにお現れになりました。マッサビエルという洞窟で聖母マリアがお現れになったとき、その右腕にはロザリオがかけてあって、それが長く膝の辺りまでたれていました。ベルナデツタもふだん手ばなさずに持っていたロザリオを取出して跪き、ロザリオの祈りを唱え聖母マリアも一しょにロザリオを唱えてくださったのです。 
 ベルナデッタは 「わたしはロザリオの祈りしか知りませんでした。」と述懐しています。ベルナデツタはカトリックの信仰告白、イエスご自身が弟子たちに教えた祈り、恵みに満ちたおとめマリアに対する天使の挨拶、それに十字架のしるし、私たちが三位一体の神のものであることを表わす美しい動作、そして天国の永遠の賛美である栄唱、それがベルナデツタが知っているすべてでした。カトリック要理もまだ学んでいないし、まだミサにあずかるためのミサ典書ももっていず、聖務日課も知らない、信心の実践の仕方も、霊的生活への手ほどきも受けていませんでした。しかしその心は非常にまっすぐで、きよらかでありました。ベルナデツタの霊的な歩みは、その生活と共にロザリオの祈りによって始められて行ったのです。彼女は自分の貧しさを深く自覚していました。牧草地で羊の番をしながら、彼女は樹齢百年の栗の木の下に石で小さな祭壇をつくり、聖母マリアのご絵を置き、その前でロザリオの祈りを唱えるのでした。その指が珠から珠へと動く時、この小さな羊飼いの子どもの魂は思いをひそめ、神をみつめるのでした。
  十月はロザリオの月です。ロザリオは無学でも誰でも、どこででも唱えることができます。伝統的なロザリオの祈りを、各自家庭やグループで唱えるように努めましょう。

梅原 彰神父
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# by shukugawachurch | 2007-10-01 00:00

祈りの大切さ

 去年、次のような話を読みました。
 高等学校の若い先生のメアリーについての話です。メアリーは一生懸命教えていたのですが、ビルという学生はいつも授業をめちゃくちゃにしました。ある日メアリーが授業の前に教室の机で、あることを紙に書いていた時、突然ビルが入って来て、メアリーに近づきながらこう言いました。「何を書いているんですか。」メアリーは答えました。「神様にお祈りを書いています。」ビルは冗談っぼく言いました。「神様は本当にあの祈りを読めるのですか。」メアリーは答えました。「神様は何でもできるのです。この祈りにも答えられるのです。」それからメアリーは聖書の中に、その紙を入れて黒板に向かって書き始めました。隙を見てビルはその祈りを盗んで自分の教科書に入れたのです。
 二十年後、ビルが古いものを捨てていた時、その教科書の中にメアリーが書いた祈りを見つけました。ビルはそれを読み始めました。なんとその祈りには、こう書いてあったのです。「神様、この仕事を失敗させないでください。このクラスはビルのせいでとても悪くなります。神様、彼の心を変えてください。彼はとても悪い人になるかもしれませんし、とてもいい人になるかもしれません。」ビルはこの祈りにびっくりしました。実は二時間前に仕事でとても悪い決心をしていたのです。それ以来、財布のなかにこの祈りを入れて毎日読んでいました。この祈りのおかげでビルは悪い決心を断って正しいことをしました。一ケ月後ビルはメアリーに電話して、その祈りで彼の人生がどのように変わったのかを話しました。
 この話は二つの大切なことを物語っています。第一に、祈りは非常に強いものです。祈りは本当に人の人生を変えることができます。体と心に祈りの影響は明らかです。祈りの力は引力より強いものです。
 第二に、祈りが成功するためには忍耐が必要です。祈りは毎日続けなければなりません。毎日決まった祈りの時間があればきっとこのことができるでしょう。クリスチャンの人生には、規則的な祈りの時間がなくてはならないものです。祈りを通して何でもできます。メアリーと同じように何年後でもきっと出来ます。
 疑う余地はありません。

      ジョヴァンニ神父    
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# by shukugawachurch | 2007-09-01 00:00

信仰養成は一生の課題

 六月の小教区評議会で教会学校の子どもたちの信仰教育について話し合われました。子どもたちの信仰教育は信徒全員が何らかの形で責任を持っているはずです。しかし教会学校は一部のリーダーや関係者にその責任を負かし、ほとんどの人は関心もなければ、責任も感じていないのが現状です。子どもの信仰教育は生涯にわたって行うべきであることは共通認識がありました。
 その時子どもの信仰教育もさることながら、大人の信仰養成は一体どうなっているのかと、疑問が投げかけられました。私たち大人は幼児洗礼の人もいるが多くの人は受洗した後、日曜日のミサや黙想会に参加する程度で、特に信仰養成の勉強会等には出席されていないのが現状です。その反省とも思える発言がなされ、大人の信仰養成の必要性を感じている評議員が多くおられました。
 私はその発言に対して、心強く感じました。会社や職場においても、研修会や会議に出序して、社員の資質や技能の向上のため、養成が行われています。教会においても、第二バチカン公会議後信徒の信仰養成や生涯養成の重要性が求められています。人は生涯学び続けなければ退化して行きます。信徒も司祭も一生成長し続けるためには、生涯学び続けねばなりません。
 聖パウロも次のように述べています。「私たちは皆、信仰によってまた神とおん子を深く知ることによって、一つになり、成熟した大人、すなわちキリストのうちに満ちているもので満たされて、その背丈いっぱいに達するように」と励ましています。キリスト教を学ぶ人を求道者と呼びますが、私たちは洗礼を受けた後も一生涯求道者でなければなりません。教会ではバザー等で多くの人々が集まりますが、黙想会や信仰講演会の時こそもっと多くの人々が集まるべきです。
 現在当教会では、信仰教育の一環として、ジョバンニ神父の指導で、聖書研究会が毎月第三土曜日の午後七時十五分より行われています。七月七日より毎月第一土曜日の午後七時十五分より、典礼研究会が梅原神父の指導で行われます。又カテキズム研究会も行われる予定です。信仰教育委員会の呼びかけで色々な信仰養成の集いが始まりますが、こうした集いに一人でも多くの方々が参加して、自らの信仰養成に取り組むよう努めてください。

                                            梅原 彰 神父

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# by shukugawachurch | 2007-07-01 00:00

教会の使命

 昇天の主日から教会はいろいろの特別で大切な日曜日を祝います。主の昇天、聖霊降臨、三位一体、キリストの聖体を祝います。というのは、教会が昇天からクリスチャンを強めるためにいろいろの祭日を祝うからです。
 なお、なぜ教会がイエスキリストの昇天からこれらを強調するのかを話を通してもっとはっきり説明したいと思います。
 Giacomo Pucciniはとても有名な作曲者でした。たくさんの有名な作曲者の先生でした。作曲したOperaはLaBOhemeとかMadame Butterflyです。けれども、一番有名なOperaはTurandotです。
 このOperaを作曲しはじめた時、Pucciniは病気になりました。癌でした。pucciniはこのことを知った時、Turandotを終えるために毎日休まずに働いていました。弟子達はPucciniに休んでくださいと言っていましたが、Pucciniは全然休みませんでした。死ぬ前にPucciniは弟子達に死んだら自分の代わりにTurandotを完成するように願いました。
 PucciniはまだTurandotを完成しないまま死んでしまいました。それから弟子達は集まってTurandotを完成しました。
 二ケ月後、初めて劇場でTurandotが行なわれました。その時の指揮者はPucciniの一番優れた弟子でした、つまりArturo Toscanini。(TOSCaniniはクラシックミュージックの歴史の中で一番優れた指揮者でした。)
 コンサートはとてもよかったのですが、急にToscaniniは音楽を止めて泣きながら聴衆に向かって言われました 「亡くなる前にここまでPuccini先生はこのOperaを作曲しました。」すると、劇場はしんとするほど静かになりました。二分後、Toscaniniは涙をハンカチで拭いて言われました「けれども、Pucciniの弟子達は作曲を完成しました。」ミュージックが終わったとたん聴衆は長い間拍手を送りました。
 私達は同じようにしています。イエスキリストは作曲を終わらないままなくなりました。けれども、イエスキリストは弟子達に作曲を完成することを求めました。だから、今私達(カトリック教会)の使命はこの作曲を完成することです。この使命ができるようにがんばりましょう。

ジョヴァンニ 神父

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# by shukugawachurch | 2007-06-01 00:00
 青葉若葉の生い茂る五月は聖母マリアの月として祝われます。長い冬の間、枯木のように死んだかのような桜の木がバッと満開となり、その美しい姿を楽しませてくれました。
 イユズスも十字架の苦しみを受け、尊いいのちを人間の救いのため、お捧げくださいました。弟了たちは失望と悲嘆のうちに三日間を過しました。しかしイエズスのいのちは十字架で終ったのではありません。イエズスは三日目に復活されたのです。イエズスの復活こそ生命の開花、満開の桜のように真の生命、秘められた生命があふれ出た花のようです。
 ところで福音書にはマグダラのマリアやベトロやエマオヘ向かう弟子たちと復活されたイエズスの出会いのエピソードは語られているのに、聖母マリアへのイエズスの出現について、一言もふれられていないことに不思議にお思いの方もおられることでしょう。それには、それなりの理由があるはずです。本来ならあれほど苦しみ、悲しまれた聖母マリアに第一にお現れになって、しかるべきでありましょう。しかし福音史家たちはイエズスの復活の真実性と客観性について、第三者の明白な証拠を提示することを主眼において記しています。マリア様がおん子イエズスの復活について語ったとしても、自分の息子について話す母親のことばであるなら、その証言を信頼をもって受け入れられなかったことでしょう。福音書はむしろ弟子たちの不信仰や疑惑、頑固なトマス等の出来事を語ることによって、イエズスの復活の真実性を浮き彫りにしているのです。
 日曜日の朝、墓に急ぐ婦人たちの中に、マリア様の名が書きとめていないのは何故なのでしょうか。それはイエズスがすでに復活されたことを知っておられたので、ご遺体に香油を注ぐために出かける必要はなかったのです。イユズスの十字架の死まで、救いのご計画に協力されたマリア様にイエズスがお現れになって、慰められないはずはなかったのです。
  マリア様こそ誰よりも先にイエズスの復活の喜びに与ることは、ごく当然と考えるべきでしょう。マリア様はイエズスの復活を固く信じておられたからこそ、日曜日の朝イエズスのお墓に出かけていかれなかったのです。聖母は誰よりも先に、誰にもまさって、イエズスの復活の栄光に与るべき方である。マリア様がイエズスの復活の勝利に誰よりも先に与ったということは、聖母マリアの被昇天の信仰箇条として宣言されています。

                        梅原 彰 神父

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# by shukugawachurch | 2007-05-01 00:00