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カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 愛について説明した文がありました。
 「良いものを見ると思い出すのが愛です。 良い服を見ると思い出すこと、それが愛です。美味しいものを食べたら一緒に食べたくなり、良い景色を見たら一緒に見たくなり、 良いことがあれば、ここにその人と一緒にいたくなると思うこと、それが愛です」。
 シンプルに愛を表現した文だと思います。
 愛は遠いところから複雑で大げさに現れるのではなく、いつも触れ合う日常から、シンプルで素朴に訪れるものであることを教えています。
 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22・37)、「隣人を自分のように愛しなさい」 (マタイ22・39)。
 イエス様が私たちにくださった最大の掟は、神様への愛と隣人への愛です。
 では、神様をどのように愛したらよいのでしょうか。 そう問われると、神様と一緒にいるとはどういうことかさえ曖昧になってきます。
 しかし、神様はいつも私たちと一緒にいるのですから、そんなに大げさに複雑に考えることはありません。 ただ良いものを食べる時に感謝し、良いものを見る時に感謝し、 良いことがある時、神様を思い出して賛美すること、それが神様への愛なのです。
 また、神様への愛は隣人への愛によって完成されます。 神様が私を愛してくださっているように、神様は私たちの隣人を愛しておられることを覚えておく必要があります。
 それゆえ、私の隣人への愛は神様の仕事への光栄な参加になります。
 終わりが見えない蒸し暑い夏が過ぎ、朝晩はかなり肌寒い風が吹いています。冷える体のように、隣人を愛する心まで冷えているのではないか、心配です。
 隣人を美しく眺められるまで愛すること、 それが、神様が造ろうとされている私たちの完成の姿ではないでしょうか。


# by shukugawachurch | 2023-11-26 10:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父


神父になって初めての日曜学校で子どもたちに質問をしました。
「日曜学校のお友だち! 神様の国はどんなところでしょう」
子どもたちは、もじもじしながら答えられませんでした。
「永遠にロザリオの祈りをするところです。永遠にミサを捧げる場所、永遠に聖書の言葉を聞く場所、 永遠に隣人の愛を実践する場所です。 神様の国に行きたいお友だち、手を挙げてください!」
日曜学校の子どもたちは誰も手を挙げませんでした。
私は続いて次のように聞きました。
「では、地獄はどんなところでしょう」
子どもたちは、またもやもじもじしながら答えられませんでした。
「永遠にロザリオの祈りをしないところ。永遠にミサを捧げない場所、永遠に聖書の言葉を聞かない場所、永遠に隣人の愛を実践しない場所です。地獄の方が楽らくそうで好きだと思うお友だち、手を挙げてください!」
すると、子どもたちはみんな手を挙げました。
 この子どもたちは、一つの明確な事実を教えてくれています。人は自分の基準によって喜びを得るところでは永遠に生きたいと思いますが、自分の基準に反したところでは生きたいとは思わないという事実です。
 神の基準と人の基準が異なる場合が多くあります。それは神の基準と世の中の基準が違うからです。神の基準から離れてしまうのは、私たちが神の国よりも世の中の基準に馴染みやすく、そちらの方が楽だからです。今、私たちが神様と時間を共にすることや、祈りや隣人愛に喜びを味わえないなら、神様の国が私たちにとって喜びの場所になるのは難しいでしょう。
 10月はロザリオの月です。
 私たちの信仰の模範であるマリア様が私たちに勧めてくださったのがロザリオの祈りです。今月は、マリア様が黙々と歩んでこられた信仰の道を、ロザリオの祈りを通して、神様の基準に近づく時間として過ごしてみてはいかがでしょうか!
「成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」(マルコ 4・32)
 神の国はからし種のように大きくなって皆を抱くことができる国です。
しかしながら、神と共にいることに喜びを見つけられなければ、私たちは自ら、神の国を拒否することになるでしょう。
 神様と一緒に喜びを見つける信仰生活を送っていますか?


# by shukugawachurch | 2023-10-01 07:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 韓国にいた時、教会の団体で認知症検査を受ける機会がありました。 周りから冗談半分で勧められ、興味が湧いてきたので予約しました。
 当日は、お医者さんが来て検査が始まりました。 順番が来て検査室に入りました。椅子に座ると、お医者さんから3つの言葉が提示されました。「栗の木」「ほうれん草」「サバ」、3回声を出して言い、後で聞くから覚えておくように言われました。 その時、隣の検査室の声が聞こえました。「さくらんぼ」「鉄の釜」「ベイカ」、部屋ごとに指定の言葉が違うんだと思いました。
 次は100から3ずつ引く検査でした。97…94…91……1まで、順調です 私はまだ若いから認知症の検査は楽だな〜と思いました。
 次にお医者さんにいくつかの質問をされました。「おいくつですか」 「〇〇歳です」。「今年は何年ですか?」「2000年です」。「今は何月ですか」「9月です」。「今日は何日ですか?」「3日です」。「お住まいの住所をおっしゃってください」「〇〇…〇〇カトリック教会です」。
 次に、「先ほど覚えた3つの言葉を言ってください」と言われました。 突然出てきた質問に、「え~!?」と頭が真っ白になりました。気を取り直して思い出そうとしましたが、 私の頭には、隣の部屋の言葉「さくらんぼ」「鉄の釜」「ベイカ」、これしか思い出せませんでした。
 私たちの信仰も同じだと思います。 私たちは自分たちのカトリック教会についてよく知っていると思っています。そして熱心だと思っています。しかし、私たちは思っている以上に外の世界に気が向きます。そして自分の信仰より隣の人の信仰を見て、比べたり顔色をうかがったりします。
 私が覚えておかなければならない「栗の木」「ほうれん草」「サバ」ではなく、「さくらんぼ」「鉄の釜」「ベイカ」を頭の中に入れています。 それで信仰の道に迷ってしまいます。
 このように、体は教会に向かいながらも、心は別の場所に向かう「信仰の認知症」という病気を患っているのではないかと考えてみましょう。
 私たち一人ひとりが足を運ぶべき信仰の道しるべ「聖父(ちち」「聖子(こ)」「聖霊(せいれい)」をきちんと覚えてついて行く力を、祈り求めましょう。


# by shukugawachurch | 2023-09-03 10:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 真冬の厳しい寒さの中で人は春の日差しを待ちます。 真夏の蒸し暑い時は秋の涼しい風を待ちます。 このように、私たちは日常の中で常に何かを望み、待ち続けます。
 信仰者にとって生きていくということはどのような意味を持つのか、真剣に考える時間を数分でも持っておられるでしょうか。キリスト信者であるという自覚と教会共同体の一員としての責任感が何より大切だと感じます。
十字架を背負ってイエス様に従う姿勢どころか、世の中のものに阻はばまれ、イエス様を忘れて生きていく私たちの姿…。司祭の説教はただの流れる時間の一部であり、イエス様の聖体はもしかしたらミサに参加したご褒美のようなものに思われがちです。
 信者が多い教会としての誇りと伝統と歴史ある素晴らしい教会という名声にもかかわらず、心からキリストの弟子としての道を歩む信仰者の人数は増えない事実を様々なことから実感しています。
 日曜学校よりは学校の部活動や塾に行くことを大切にする世の中です。聖母の被昇天を祝うよりは夏休みやお盆休みがより優先される世の中です。
 その一方で、心が苦しい時、人生で辛いことがある時、何かの決断が必要な時は忘れず訪れるのが教会です。心の救急病院のように…。
 神様がおっしゃることには耳を閉じて、自分が望むことだけを吐き出す信仰生活です。
 誰よりも自分や家族の幸せを望み、良い成績、良い職場、良い配偶者、良い家庭を築くことを望みます。そのための祈りを口実に、何度も神様を探します。そして天国を願い、助けを望みます。
 聞いて嬉しい言葉や褒め言葉には喜んで答えますが、そうでない言葉には耳を閉じて無視します。自分の子どもは何よりも大切なのに、あなたの子どもを私たちのために十字架の上にかけよと叫びます。
 その私たちを今も待ち続けておられる神様です。寒い冬の後の春の日差しのように…、真夏の蒸し暑さの後の秋の涼しい風のように…。

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# by shukugawachurch | 2023-07-22 18:00
                                                       
ダニエル 李 昇倫 神父
 日本語学校に通っていた時、外国人の友達と日本の文化について話をしていると、必ずと言ってもいいほどよく話題になることの一つが自販機文化です。 韓国や他の国にも自動販売機はありますが、設置数はもちろん種類から見ても日本がトップです。他の国ではほとんど飲み物に限られていますが、日本はお酒、タバコ、アイスクリーム、さらに最近は唐揚げや餃子など、数え切れないほどの種類が次々と出ています。 このような自販機文化があまりない国の留学生たちにとっては、とても便利でありがたいものだと感じます。
 しかし、日本での生活が長くなればなるほど、留学生にとっても自販機文化は特別なものではなくなっていきます。いつもそこにある、当たり前のものだと感じ、ありがたいと思う気持ちが薄まります。逆に、探している時に見つからなかったり、目に入らなかったりするとイライラしてしまうことさえあります。感謝すべきなのに感謝できず、むしろ不満を感じてしまうのです。
 もしかしたら、これが私たちの信仰の姿ではないでしょうか。神様はいつも私たちのそばにいらっしゃるので、その大切さを感じられないのです。 自分が必要な時にだけ訪ねて、欲しいものだけを要求して帰る。自分が必要な時に、必要なところにいないと、イライラしてしまう。そして、 次に自分が必要に思うまでは、いとも簡単に忘れてしまう。私たちのそばにいらっしゃる、私たちが接する神様が、そのような存在になってしまっているのだと思います。
 私の机の前に貼ってある「新年の祈り」という紙に、毎月の祈りが書かれています。 6月は「私の心が謙虚になるように。人を大切にし、誇りと傲慢から私の心が遠ざかるようにしてください」と書かれています。 私が謙虚でないのは、傲慢だからです。私自身が自分を誇り、すべてに感謝できないのは、すべてをくださった神様が私の中にいらっしゃらないからです。
 新しく始まる6月。今月はもう少し謙虚な姿で、必要に迫られるときだけでなく、関心と愛をもって神様を訪ねる時間が増える一ヶ月になることを願っています。

# by shukugawachurch | 2023-06-11 10:00