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カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch
                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父
夙川教会の信徒の皆さん
 新型コロナウィルスによる新型肺炎の感染が全世界に広がり、多くの人々が亡くなり、また感染者も増え、皆さんも不安な日々をお送りのことと思います。教会の長い歴史の中で、日曜日の公開ミサが中止になるということは初めてのことと思います。
 私たち司祭は、個人として毎日ミサを皆さんのためにお捧げしていますが、信者の皆さんにとって、ミサに与れず、ご聖体拝領ができないことに、さぞ寂しさを感じておられることと思います。この感染が一日も早く終焉することをお祈りするばかりです。
 私は今回の災いはある意味で神様の人類への警告ではないかと思います。現代、人間は人間の知恵を使って何でもできるという傲慢に陥って、神を忘れ、神のみ旨を無視し、自由奔放に生きています。しかし、新型コロナウィルスのような細菌にさえ打ち勝つことができないのです。私たち人間は、神がおられ支えてくださっているから生きることができるのです。ですから、もう少し神に敬意を払うよう呼びかけておられるのではないでしょうか。私たちキリスト者もこれを契機に、この四旬節受難節を、回心し、祈りと犠牲、愛の業に励み、主を賛美し感謝を捧げて過ごしましょう。 
 皆さんの心身の平安をお祈りします。
                       主任司祭 梅原 彰


# by shukugawachurch | 2020-03-20 12:00
                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父
 生れてはじめての新型コロナウイルスのため、公開ミサの中止やキリスト教講座の中止になり複雑な心境です。皆さまとお会いできなく寂しい思いです。早く感染がおさまり、平常にもどれますようお祈りします。皆さんは各自祈りや聖書朗読をして相応しく四旬節をお送りください。
主任司祭 梅原 彰
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# by shukugawachurch | 2020-03-06 12:00

司祭叙階55周年を迎えて

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父
 私は今月20日、司祭叙階55周年を迎えます。私は先月初旬、ガラシア病院に検査入院しました。食物がスムーズに腸に至らず、その原因を調べてもらいました。20年前、胃がんの全摘手術をし、その時、食道と小腸を縫合したところが細くなっているのではないかと、胃カメラを飲みました。そこは問題なく、何度も腹部手術を受けているため、腸の癒着があり、5年前に腸閉塞を起こしてバイパス手術を受けていることも影響して、トラブルが起こることがあるので、疲れすぎないように働き方を変えていくこと。ゆっくりよく噛んで食べることしか解決する道がないことがわかりました。がんの転移でなかったことにホッとしています。
 思えば、司祭叙階50年の時は、阪大病院に入院(すい臓がんの手術)していました。その時、私は数年以内に天に召されると思っていましたが、術後5年生かさせてもらったのです。これはひとえに神の恵みと、多くの方々のお祈りの賜物だと感謝しています。
 私が司祭に叙階された時、ある神父さんが「司祭になることは難しいが、司祭であり続けることはもっと難しい」とおっしゃった言葉を思い出します。今になって、その言葉の重みをひしひしと感じます。過去何度か、司祭を辞めようかと思ったこともありました。イエスは弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言われました。弟子たちも何度か罪を犯したことがありました。私も弱い罪深い存在ですが、多くの皆さんの祈りに支えられて、今日まで司祭職を続けることができ、深く感謝しています。
 思い起こせば、司祭生活の中でいろいろな喜びと悲しみ、苦しみ等が走馬灯のように思い出されます。
 私は6年前、ポーランドとハンガリーに巡礼に行きました。その時、思いがけない出会いを体験しました。恩師ネメシェギ神父(イエズス会)にお会いできたのです。長年、日本の神学校で働かれ、高齢のため引退してハンガリーに帰国しておられたのです。連絡がとれ、共同司式でミサをする予定でした。当日、ブタベストの聖マチャーシュ聖堂の地下聖堂に来てくださったのですが、恩師は足が悪く、共同司式をすることができません。「今日は神父さまのごミサに与ります」と言われ、巡礼者の信徒席に着かれました。本当は恩師の説教が聴けるのを楽しみにしていました。恩師の前で私が説教することになり、緊張しました。恩師は私の拙い話を聴いてくださいました。私は恩師の謙虚さに頭が下がり、思わず涙が出ました。恩師はその時、「教え子のミサに与ることができたのは、本当に私の喜びです」とおっしゃってくださいました。恩師はその時、90歳を超えておられました。先日、恩師が危篤だとの知らせを聞き、私は恩師に感謝と安らかな眠りをお祈りしました。私は恩師の授業を受けることができたことにより、キリスト教をある程度、理解することができたのです。私は55年の間にたくさんの人々と出会い、喜びも悲しみも共にでき、司祭であり続けられたことを心から感謝します。残された人生を少しでも長生きし、すべてを主に委ねて、一日一日を大切に生きていこうと思います。


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# by shukugawachurch | 2020-03-01 00:00
                                                       
グエン・シン・サック 神父

 今回は、カトリック儀式書から「ゆるしの秘跡」を参照し、紹介します。

 個人の生活においてと共同体の生活において、罪によって受ける傷には様々な違いがあるのと同様に、回心によってもたらされるいやしもまた多様である。大罪によって神の愛の交わりから離れた人は、ゆるしの秘跡を通して、失ったいのちを取りもどす。小罪に陥り、日々自分の弱さを体験する人は、ゆるしの秘跡に繰り返しあずかることによって、神の子らの豊かな自由に達する力を得る。
① ゆるしの秘跡がもたらす救いの恵みに浴するためには、いつくしみ深い神が定めてくださったとおり、内的な反省(心の糾明)をした上で、覚えているすべての、また個々の大罪を、あわれみ深い神の定めにより司祭に告白しなければならない。
② さらに小罪だけであっても、この秘跡にたびたび熱心にあずかることは非常に有益である。それは、単なる儀式の反復でも一種の心理的訓練でもなく、イエス・キリストの死をわたしたちの身に帯びることによって、ますますイエスのいのちがわたしたちのうちに現れるように、絶えず洗礼の恵みの完成に励むことだからである。回心者は、小罪の告白を通して心を改めるとともに、より深くキリストに似るよう、また聖霊の声により注意深く従うよう、特に努めなければならない。
 この救いの秘跡が、キリスト信者の生活全般に根をおろし、神と兄弟への奉仕に駆り立てるものとなる時、その真価が発揮されるであろう。教会はゆるしの秘跡を執り行うことによって自らの信仰を宣言し、キリストがわたしたちを解放して自由を与えてくださったことを神に感謝し、キリストと出会う日を待望しつつ、自己の生活を霊による奉献として神の賛美のためにささげる。

 ゆるしの秘跡は非常に有益な秘跡ですから、皆さんもぜひ、この秘跡の恵みに与ってください。


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# by shukugawachurch | 2020-02-01 00:00

主イエスのご公現

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父
 主イエスのご公現は、神が人となって、その栄光をユダヤ人のみならず全人類に現されたこと、イエスこそが全人類の救い主であることを記念する祭日です。また、救い主の招きに応じて、私たちが信仰と希望をもって父である神のもとへ行こうという決意を新たにする日です。
 パウロはエフェソの教会への手紙の中で、神から遠い存在であった異邦の民がキリストの光を受けて近いものとなり、聖霊によって神の住まいとなると説いています。(エフェソ2・22参照)
 今や向かうべき中心が全世界に与えられ、すべてのものが頭かしらであるキリストを中心に、一つに集められているのです。
 馬小屋に当然いるはずの人々が、不思議にもイエスを拝んでいないのです。反対に、いなくてもいいはずの異邦人(ユダヤ人から見れば外国人)の学者たちがイエスを拝んでいるのです。
 当時の律法学者は、聖書(旧約)に書かれている、救い主がいつ、どこで誕生されるのか、頭ではよくわかっていたはずです。二千年にわたって人々が待ち望んでいた救い主がベトレヘムで生まれるはずだということをよく知っていたはずです。彼らのいたエルサレムから歩いて2時間ほどで行けるところに救い主が生まれるということを知りながらも、拝みに行かなかったのです。
 また、ユダヤ人の祭司たちもエルサレムの立派な神殿で、神に香を捧げながらも、神のみ子が小さな赤ちゃんになられたということを見過ごしていたのです。
 ヘロデ王は神殿を建て直すために甚大なお金を使っていながら、ベトレヘムでユダヤ人の王、救い主が生まれたことを知りながらも、自ら進んでベトレヘムに行かなかったばかりか、その救い主を殺そうとさえしたのです。
 僅かな羊飼いを除いて、ユダヤ人は誰も救い主を拝んでいないのです。このことは不思議なことです。しかし、それにも増して不思議なのは、異邦人である学者たちが、聖書のことを詳しく知りもしないで、東方でメシアが生まれたことを心の中でおぼろげに感じ、その招きに応えて、確かなことを知らないまま、何日もの長い旅に出発したことです。たぶん奥さんや友人からは反対されたことでしょう。にもかかわらず、知らない処ところに向かって冒険の旅に出たのです。
 やっとエルサレムに着いた学者たちは、ユダヤ人の王さまが生まれたのだから、皆が喜んでいるだろうと思ったのですが、誰一人としてメシアの誕生を喜んでいません。学者たちは驚き、がっかりしながらも、星の示してくれる処まで行きました。
 救い主の前にひれ伏した時、言葉で表すことのできないほどの素晴らしい喜びと慰めを感じながら、この赤ちゃんは神様から送られたひとり子だと認め、信じ、赤ちゃんを礼拝したのです。
 私たちも、イエスこそ私たちの主キリストであることを宣言いたしましょう。


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# by shukugawachurch | 2020-01-01 00:00