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カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch
                      
  今月の月報では特別な聖人を紹介したいと思います。6月11日は、聖バルナバの祝日です。この聖人は確かに有名な聖人になりませんでしたが、聖霊降臨から始まった教会には、すごく大事な役割を果たしていました。
  キプロス島で生まれた聖バルナバは、自分の財産を売ってキリスト教徒になるためにエルサレム教会に全部捧げます。このラジカルなしるしをとおして自分の回心とこれからイエス様に属していくことを示しました。
  聖バルナバの人生の中で、イエス様との出会い以外にもう一つのとても大事な出会いがありました。ある日聖バルナバは、回心したばかり聖パウロと出会いました。聖パウロは、まだみなに信頼されていませんでした。というのは、彼は厳しい迫害を初期の教会に与えたので、キリスト教の信者の中でいやな気持と本当に回心したかどうかの疑問があったからです。けれども聖バルナバは疑うことなく、すぐに信頼しました。それゆえ、アンチオケにある教会は、最初の宣教旅行を行おうとしていたとき、聖バルナバは聖パウロと一緒に行くようにしました。そのとき、聖バルナバが持っていた聖パウロに対しての信頼のおかげで、キリストの教会は異邦人の間に広がり始めました。
  最初の宣教旅行が終わると教会に大きな問題が生じてきました。異邦人がキリスト教徒になるために先にユダヤ教徒になる必要があるかという議論がありました。特に割礼を受けなければならないかどうかという問題がありました。この問題に応じるために教会史では最初の公会議が行われました。エルサレムでは49年に12人の使徒たちと聖パウロと聖バルナバが集まって結論を出しました。聖パウロと聖バルナバの立場が勝ち、異邦人が割礼を受けなくてもいいということになりました。もちろん、聖パウロの勝利は聖バルナバの調停をする能力のおかげでした。
  第二宣教旅行の始まる前に聖バルナバは、自分の従兄弟、聖マルコを連れていきたい気持ちを聖パウロに伝えました。けれども、聖パウロは、聖マルコには以前の喧嘩のせいで一緒に来て欲しくありませんでした。そのときに柔和な人である聖バルナバは、静かに宣教活動から退いて聖パウロに異邦人の間の宣教を全部任せました。
  聖バルナバは、本当に優しくてかたい信仰を待っていた聖人でした。柔和な人で人気者にはなりませんでしたが、とても決定的な役割を果たしました。聖バルナバは、聖パウロを信頼して宣教活動を任せました。その結果、教会は世界中に広がり、私たちもイエス様の弟子になることができました。
  偉い人でなくても、目立つことをしなくても偉大なことはできます。ただ聖バルナバが持っていたかたい信仰が必要です。
ジョバンニ神父


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# by shukugawachurch | 2008-05-26 14:25
グイノ神父様からのおくりもの

  聖霊、来てください!
信じる人の心を満たし、あなたの愛の火を燃やしてください!
(聖霊降臨の続唱)

    
                                   

 大阪人は"もうかりまっか?" "ぼちぼち" と言って挨拶を交わすそうです。私たち信者が"燃えているか?" と挨拶をされたら・・・。
 先月、芦屋教会で松浦吾郎司教様のもと、合同堅信式が盛大に行われました。甲子園・芦屋・夙川の三つの小教区より、大人子供57名の心が聖霊の恵みで満たされました。感動しました。日本のカトリック教会は死にかけていると嘆く声を耳にすることがありますが、芦屋教会のように、侍者がいっぱい・聖歌の高く響く・心を一つにして信仰宣言を唱える信仰共同体は、とても元気という強い印象を受けたのです。
 松浦司教様が一人一人に”聖霊を受けなさい”とおっしゃるとき、各々の頭の上に聖霊降臨のときに現れた炎のような舌はありませんでした。異言で祈るとか,病気をいやすとか、聖霊刷新による特別の賜物を受けた風でもありませんでした。
ただ、そのとき、神様を賛美したい。キリスト様の愛を伝えたい、心の喜びを他の人と分かち合いたいという気持ちが、生じたのではないでしょうか?聖霊によって各々の心がわからないうちに変えられるのです。聖霊がその人のうちに働き、キリスト様のうちに生きる喜びが、あふれ出てくるのです。聖霊からいただく喜びの心は、強く美しい実を結びます。いただいた喜びで元気な信仰の証し人になりましょう。
 キリストの教会、私たちの教会は生き生きとしている、聖霊の働きによって! 私たちの協力を期待しておられる神様のために、”燃えているか?”の挨拶に、”ぼちぼち”ではなく、”もちろん、よう燃えているぞ!と答えたいものです。
                                コーナン・ミシェル 神父


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# by shukugawachurch | 2008-05-02 22:26
 
ミサの奉納のとき、私たちはパンとぶどう酒を捧げます。ユダヤ人にとってパンとぶどう酒は日々の労働の実りであり、喜びのしるしです。パンは生きる力、働く力を与えます。奉納のとき、パンとぶどう酒を捧げることは労働(生活)の苦しみと喜びを捧げることを表わしています。このパンとぶどう酒が聖変化のとき、キリストの体と血に変化するのです。このキリストの体と血を拝領することによって完全なかたちで、聖体にあずかるのです。キリストが聖体について前もって教えられたとき「私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。」(ヨハネ六章)と。そして最後の晩さんの席上「皆取って食べなさい。受けて飲みなさい。これは私の血である。」と言われました。それではどうして現代の私たちは御血を飲むことをしなくなったのでしょうか。初代教会のキリスト者も御血に対する愛と尊敬から御血を拝領していました。典礼の歴史の流れの中で以下のような理由で御血の拝領が遠ざかったようです。
一、同じ杯から御血を拝領することにより、伝染病が広まるという衛生上の問題。
一、御血をこぼすという不敬のおそれ。
一、御血の拝領によりミサの時間が長くかかるという時間上の問題。
 又キリスト者が増え高齢者、子供たちもいて、彼らの両形態による拝領は遠慮され、その習慣は徐々に廃れて、御血の拝領は司式者のみに留保されたようです。ミサ以外での聖体礼拝も御体の顕示、礼拝、祝福のため用いられて行きました。御体の聖体拝領だけでも、救いに必要な恩恵を何ら失わないし、効果も変らないことはいうまでもありません。キリストは両形態のどちらにも全面的に現存しておられるのです。第二ヴァチカン公会議は次のように述べて両形態での聖体拝領を許可しています。「両形態による聖体拝領は使徒座が規定する種々の場合に、聖職者にも修道者にも、また一般信徒にも、司教の判断によって授けることができる。」と両形態の下での拝領は許可されただけでなく、奨励されています。日本司教団も許可しています。そのため今後当教会では以下の様式で日曜日のミサのとき両形態の聖体拝領を実施いたします。
 (六月一日より)
一、御体を手に受けとり「アーメン」と答え、司式者の横にいる聖体奉仕者の持つ杯に浸していただく。御血を床に落とさないよう細心の注意をはらう。
一、祭壇の上に置かれている左右の杯を手に取り、少量を飲み唇がついたカリスの部分をブッフィカトリウム(布)でぬぐう。勿論今まで通り御体のみの拝領も自由である。

梅原 彰 神父


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# by shukugawachurch | 2008-04-01 00:00

復活祭:世界の春。

恋人よ、美しいひとよ、
さあ、立って出ておいで。
ごらん、冬は去り、雨の季節は終わった。
花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。
この里にも山鳩の声が聞こえる。
いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。
恋人よ、美しいひとよ
さあ、立って出ておいで。
岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ
姿を見せ、声を聞かせておくれ。
お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。 雅歌2:10-14

聖書の雅歌の著者にとって春の更生が詩の最高のインスピレーションです。あの当時まだ人間の社会が深く自然と結び付けたので自然のリズムによって生きていた。けれども私たちも、現代の人間なのに、春の魅力を無視することがなかなかできません。特に春との復活祭の結び付きを気付くのを避けることができません。実は、復活祭の日にちは春分によって決められています。こういうわけで、最初の教会によると復活祭が世界の春として描かれていました。春に自然は目が覚めて、起きて、息をして、走ります。同じように私たちの世界は復活祭にイエス様の復活を通していのちの意味に目が覚めて、聖霊によって起きて、新しくて止まられない命が始まります。
復活したイエス様との出会いの話の中でペトロとヨハネと夫人たちがみな走っています。復活前の世界と復活後の世界が全然違うから。全部変わりました。復活後の世界にはいのちと意味と目的があります。冬の暗闇がなくなりました。イエス様の光は私たちの世界を照らしています。救われた人間がイエス様の光の中で走っています。悪が負けました。これから悪はこの新しく走っている世界を止められません。
この復活の大きな喜びは鳥の歌のようにみなに告げ知らせるべきです。キリスト者は春の花のように香るべきです。実を結ぶべきな季節になりました。聖霊をたっぷり呼吸してイエス様である道を一生懸命走りましょう。

 ジョヴァンニ 神父

            
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# by shukugawachurch | 2008-03-01 00:00

四旬節はつらい?

           コーナン神父
"新春"ような美しい言葉を耳にすると心はずむ喜びが生じてきます。反対に冷たく暗い感じを与える言葉もあります。"四旬節"はその一つでしょう。灰の水曜日から(本年2月6日)、日曜日を除いて、聖土曜日まで40日間も長く続くこの期間を楽しく迎える気にとてもなれないものです。でも、信仰の目で見れば、一番大事な救いの喜びをいただくときではないでしょうか?
 四旬節というと、"断食・犠牲と祈り"の3つの業が浮かんできます。しなければならないと思うと、辛いものですが、それを心をこめて捧げると、教会とともに聖なる3日間に向かって歩んでゆく効果的な期間になります。
 よい四旬節を過ごすよう、自分が神さまとそして同時に他の人へ近づいていくように、ヒントを紹介しましょう。
・こころから祈ること。例えば、電車に乗って、散歩しながら、家事をこなしながら。あるいは、仕事や宿題を始める前に。
・日曜日ごとの「聖書と典礼」のみ言葉の一節を選んで味わいながら、その過の自分の霊的な糧とすること。
・毎日、他人のために、頼まれる前に自発的によい業を一つ行うこと。
・他人から書を受けたり、不愉快なことを言われた時、怒ったり攻撃したりする前に、ちょっと聖書の助けを頼むこと。(自分の気持ちを抑えるよりも、聖霊の力によって心を変えていただいたほうがいいでしょう?)
・自分に必ずしも必要でないのに、自分の欲望を満たすために高価なものを買ってしまった時、その値段の数パーセントを分かち合いの心で、貧しい人とか、失業者とか、施設にいる子どもとかのために、四旬節献金をしたり、福祉団体に献金したりすること。
・あの人に電話したら喜ぶ、訪問したら善いと、常々思っていることを実行すること。
・からだのゆるす限り、献血をすること。(命を救うことに協力できるでしょう!)
などなど…。よい業を行うことによって、神さまに喜んでいただくと同時に、自分の心が少しずつ清められて、主の復活の大きな救いの喜びを深く味わうめぐみをいただくのです。思い切って、辛いと思っていた四旬節を深い霊的な訓練の期間に変えてみませんか?

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# by shukugawachurch | 2008-02-01 22:29