ダニエル 李 昇倫 神父
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(1テサロニケ 5・16-18) 周りの状況に関係なく、常に喜び、いつも祈り、いつも感謝する人生を送りなさいということです。 この生き方をする時、平和な人生だと思います。 このような平和は純粋に神様からの贈り物です。 数年前の教皇に関する記事のタイトルが面白いです。
“教皇様は聖ペトロの聖殿で聖なるロザリオで祈りのマラソンを始めます”
「祈りのマラソン」という言葉が心に残っています。私たちはどんな祈りで教皇様の「祈りのマラソン」に一緒に参加しなければならないでしょうか?
聖母を象徴するバラが最も満開になる5月を、カトリック教会は聖母月と定めています。
私たちがよく祈る「ロザリオ」はバラの花冠(はなかんむり)を意味するラテン語です。初代教会の迫害の時代、殉教者たちにバラで編んだ冠をかぶせました。 殉教者たちの死の前で彼らがかぶったバラの花一つ一つに「アヴェ・マリアの祈り」を捧げたのがロザリオの由来です。
こんなに悲しいけど、何より美しいロザリオの祈り。
息子の死の前でも黙々と祈りを捧げた信仰の模範である聖母に倣ならって捧げる祈りがまさにロザリオの祈りです。
私たちはカトリック信者として生きながら、果たしてバラの冠を作って聖母に奉献しているでしょうか?
バラの一花一花、聖母への花が冠となる時、ロザリオの祈りが完成します。 私のために、家族のために、隣人のために、何よりも私たちの救い主イエス様のために、5月の一ヶ月は聖母とともにバラの花冠を作る時間を持つのはいかがでしょうか。
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by shukugawachurch
| 2023-05-01 09:00
ポポン・エマニュエル 神父
復活祭の時に洗礼を受ける人をどのように迎え入れるのがいいのでしょうか。受洗者に、教会の習慣を教える義務があるのではないでしょうか。そうしないとその人が間違ったことをしてしまうかもしれません。また教会を維持することを考えると、色々なことを教えないと、教会が継続できなくなるおそれもあります。つまり、新入社員と同じように受洗者にも訓練が必要です。それは当前のことですが、受洗者を新入社員だと勘違いしてはいけません。洗礼を受けることは、簡単に言えば、イエスとともに歩むという聖霊の呼びかけに答えるということです。人の心の中で働く聖霊は、各人を神の子どもになるように導いてくださいます。洗礼を受けるまでは、自分の心に従っていました。それなのに、どうして洗礼を受けてから人の教えに従わなければなりませんか? 受洗者に教える時に気をつけなければならないことが一つあります。それは、教えようとする人が神の代理になってしまうという過あやまちです。特にその教会での習慣を教える時に。人間のルールを教えるのか、その人の自由を支える教えを伝えるかを見分けるように努力しましょう。それは受洗者を人間のルールに縛らないためです。社会のルールは人間のルールであることがはっきりわかります。一方、教会の中のルールは、人間が考えたのに、神のルールにしてしまう可能性が高いです。それはイエスとファリサイ派とが言い争ったことからよくわかるでしょう。
教会の習慣と聖霊の導きを混同してはいけません。「ここの信者になるためにこうしてください」と教える時に、それが人間の習慣だとはっきり意識しましょう。そして、その習慣を守らなければ信者じゃないというような裁きの言葉を言わないように気をつけましょう。
教会は神が維持するものです。私たちが維持するものではありません。受洗者が洗礼を受けたのは、習慣を守って教会を維持するためだという考えを避けましょう。教会は、イエスに結ばれて世の中を歩む人の集まりです。教会の使命は、人間が作ったルールに従うように教えるのではなく、むしろ、イエスの愛とイエスの奉仕の精神に従うように、お互いに励み合う場所です。「ここの教会ではこうしています」という言葉を聞くたびに、いつも違和感を持ちます。
神の子どもとしての自由を達するための教えや勧めはふさわしいと思いますが、習慣や活動について教える時には特に気をつけましょう。
受洗者をはじめ、お互いにとってどんな共同体でありたいかを改めて考えましょう。人を迎え入れ、聖霊の自由を生かす共同体であるように常に神の導きを願いましょう。
それこそ受洗した兄弟姉妹に対して模範になるに違いないです。
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by shukugawachurch
| 2023-04-02 09:32
ポポン・エマニュエル 神父
ミサは主イエスが用意してくださった食卓を囲むひと時です。 主イエスご自身が与えてくださるのは、友情、憩い、慰め、癒し。さらに与えてくださるのは、疑いを超える信じる力、恨みを超える和解の謙遜、苦しむ人に寄り添う勇気。
ミサは主イエスの思いやりを受け入れ、それによって新たにされるひと時です。ミサの中で主イエスが用意された食物によって養われてわたしたちは成長できます。その食物はみことばとパンとぶどう酒。それぞれを通して、イエスはわたしたちを永遠の命へ導いてくださいます。
主イエスは、わたしたち一人ひとりが天の父の子になるために、一人ひとりに合わせた道を整えてくださいます。ミサはイエスの心にあずかるひと時です。
主イエスによって回復され、豊かにされるひと時です。
ミサは、この地上を旅する間に、一旦荷物を置いて、一緒に歩んでくださるイエスと分かち合うひと時です。
ミサはイエスのそばに集まり、イエスに聞き、イエスに倣うひと時です。静かな雰囲気でなくても、大勢の人がいても、イエスは各人にその時間を準備してくださいます。ミサには準備が必要です。役割分担とやらなければならないことがあります。しかし、ミサのために準備する時、必ずそれはイエスとともに過ごす時間であるといつも思い出さないと、あっと言う間にイエスが伝えた思いやりを忘れてしまいます。ミサとそれに伴う行いはイエスとともに行うものです。自分のやっていることでイエスが伝えた思いやりを失うことになれば、それをやめたほうがましです。
ミサは特別にイエスと繋がる時間です。イエスに繋がって、他の人とすべての命との繋がりが深められます。ますます神の子どもとして生きていきます。
忙しいからこそミサは欠かせないものだとわたしは強く感じます。とはいえ、行きたい気持ちがなければ、イエスが与えようとするものを受け入れられない恐れがあります。誰かを誘う時、まず自分がどうして行きたいかを確認してから誘えば、きっと行きたい気持ちが通じます。
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by shukugawachurch
| 2023-03-01 07:00
ダニエル 李 昇倫 神父様
司祭として人生を過ごしてきていますが、司祭らしく生きているのかと常に自分に向かって問いかけています。 「らしく」生きるのは簡単そうですが、実はかなり難しいことです。積み上げた壁を壊さなければならないからです。口先ではなく生き方そのものでキリスト者になるのは本当に難しいことです。自分が積み上げた壁を自分で壊すという門を通らなければならないからです。キリスト者の生き方の中核は「戻る」です。本来の人間の姿に戻るのです。自分が積み上げてきた壁を壊すのです。「救い」とは、自分の誇りに目を覚ました人間が築く神様との関係です。自分が「戻る」ことで、神様と自分の関係を回復させます。「悔い改め」はまさに「戻り」を意味します。壊すということです。
昨年10月、韓国の首都ソウルの真ん中で156人の若者が命を落としました。あまりにも痛ましい死で、胸が痛む事故でした。私たちが覚えておくべきことは、誰でもこのような事故の犠牲者になりうるということです。誰もが死からは逃げられないという事実です。このような死がいつ自分に訪れるか分からないということです。だから何より今、私が生きているということに感謝し、悔い改める時間を持つことが求められます。
世界を眺めると希望よりは絶望が、光よりは暗闇が見えます。人は相手を愛の対象ではなく、自分の利益や野望や目的のために選びます。人を人格として扱わず、道具のように扱う世相なのです。人間の尊厳を論じるには社会があまりにも非人格化されているのです。
教会が危機だと言われます。言葉での実践はいくらでもできます。しかし、行動の実践はありません。何よりも重要なのは「自分」なのです。
四旬節の始まりには新たな誓いが必要ではないでしょうか。教会が自分のために何をしてくれるかを見る前に、「自分」は教会のために何ができるのかを考えなければなりません。私の指先が他人(ひと)を指(さ)すのではなく、自分に向かわせるようにしなければなりません。 #
by shukugawachurch
| 2023-02-01 09:00
ポポン・エマニュエル 神父
新年を迎えた途端、すぐに新しい年に惹かれて、クリスマスの雰囲気を忘れてしまいます。そもそもほとんどの人にとって、新年とクリスマスは関係がありません。そう考えるのは当然かもしれません。 新しい年は地球の公転によるもので、すべての生き物に影響があります。一方、イエスの誕生日であるクリスマスは信者以外の人にはあまり影響がありません。
ところが、実は違います。クリスマスでお祝いした出来事の影響はすべてのものに及んでいるのです。
イエスの誕生日の本当の日付は知られていません。しかし、イエスの誕生の影響は信者だけではなくすべてのものに及ぶことを示すために、昔の信者はヨーロッパの真冬の中で夜が一番長いと思われていた日をイエスの誕生日としました。
新年が春の光へと向かっているのと同じように、イエスの誕生は人類の永遠の春の光に向かっています。イエスの誕生日を決めて、イエスの誕生を祝い、信じる人のためだけではないことを伝えようとしました。イエスの誕生は、存在するすべてのものの上に、太陽のように神の光と命をもたらします。わたしたちはその完成を希望を持って信じ、待ち望みます。その時が来たら、すべてが神の喜びで満たされるのです。
新年とイエスの誕生は希望でつながっています。新年は希望をもたらします。新年には新しい年が良い年であることを願います。喜び、楽しみを望みます。信じる者にとって、その喜びと楽しみはすでに主イエスによって用意されています。それを信じるからこそ、イエスの誕生日がお祝いの日になりました。イエスの誕生はわたしたちが抱く喜びと命への希望が叶えられたことを告げ知らせます。救いが来ました、と。
新しいカレンダーになりましたが、一年は繰り返しではありません。毎年、毎日、神の救いが近づいているのです。
主イエスがもたらす救いの喜びが皆さまを訪れますように。
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by shukugawachurch
| 2023-01-01 09:00