カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch

夙川教会と典礼

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コーナン・ミシェル 神父



 わたくしたちの聖堂は、夙川駅から近いですし、また、外から見てもとても美しいですから、お天気の良い日など、カメラを持った方々の憧れの対象です。洗礼の恵みをまだ受けていない方々でも、自分たちの結婚式をこの聖堂で行いたいと望むカップルは、少なくないのです。

 さて、カトリック教会の典礼では、目と耳と心の調和が大切です。

 まず、耳においては、阪神大震災によってせっかくのパイプオルガンが壊れてしまったのは、残念なことでしたが、現在のオルガンでも、オルガニストの方々が、美しい音色でわたくしたちを祈りに上手く導いてくださっています。たまに赤ちゃんが自分なりの声を出して神様を賛美するようですが、守護の天使に勧められたのか、許されたのか、そのような声さえ、さまざまな人の存在を思い、祈ることになります。

 次に、目においては、聖テレジアはわたくしたちと一緒に祈っておられるようなしぐさで、ミサに参加してくださるようになりました。主日の日曜日、少しずつするべきことを覚えた侍者の子どもたちは、積極的にミサの役割を果たしてくれています。もちろん、担当司祭も参加者とともに祈り、共同体の一員として、自分の役割を果たしております。皆さんが内陣の祭壇上での典礼を見てくださることで、心が一致してゆきます。

 最後に、心においては、ミサの間、沈黙を守るべきところがあります。それは、個人的に感謝の祈りを深くするべき時を意味しています。聖霊の働きによって、深く神に語りかけ、結ばれ、感謝する時なのです。(感謝できない人は、もっと執り成していただけるよう祈りましょう。)祈りのうちにありがたい恵みをいただく時なのです。

 現在、内陣の右側に、大きな木のピエタが置かれています。ブスケ神父の時代、神戸の居留地に建てられた「悲しみの聖母」に捧げられた教会の入口の上に掲げられたアーチ状の飾り(タンパン)です。1870年くらいのものではないかと思います。このピエタは典礼的なものというよりは、もっと歴史的な価値が現れるところで、なお一層、価値を発揮するのではないでしょうか?

聖堂は祈りを捧げる場所、恵みをいただく場所、人間が神に出会う場所ですから、わたくしたちは、先輩方が黙想のうちにイメージし、作り上げた聖堂を大切にしたいものです。先輩司祭や信徒の方々が、天国から執り成し続けてくださっているでしょうから、わたくしたちは、聖堂を祈りの場として、聖人の歩まれた道に倣って、歩んでまいりましょう。



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# by shukugawachurch | 2017-06-01 00:00
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ヨセフ 赤波江 豊神父
 私は12年前からタイと関わっており、毎年神学生や大学生を連れてタイ北部の山岳民族の村を訪問しています。タイ北部の山岳地帯には伝統的に山岳民族と呼ばれる人たちが住んでいて、主に農耕に従事しています。カレン族、アカ族、モン族、ラフー族など10以上の部族があり、それぞれ言語も違います。実はこれらの山岳民族の中にはカトリック信者が多く、村全体がカトリックという所もたくさんあります。今年は2月27日から3月9日まで北部のオムコイ市から車で2時間ほど行ったカレン族のナキヤン村を訪問しました。この村は戸数50戸。村には教会があり、カレン人の司祭がいます。参加者は10名で、夙川教会からは2名の信徒と大学生が参加しました。日本語はもちろんのこと、英語も通じない村で手作りの簡単なカレン語ガイドブックだけをたよりに悪戦苦闘の毎日でしたが、結局参加者全員が体験できたことは、言葉は分からなくてもコミュニケーションできるということでした。特に子どもと遊ぶのに言葉は不要です。日本にいる時はあまり子どもたちと遊ぶイメージのなかった青年たちが村で純粋に嬉しそうに子どもたちと遊んでいる姿は、輝きそのものでした。そして村人と私たちとの最高の接点は同じ信仰を持っているということでした。村には信徒自らの手で建てた美しい教会があり、そこで毎日同じミサに参加して共に祈り歌い、特にカトリック聖歌の「あめのきさき」をカレン語と日本語で歌った感動は今でも心に残っています。私たちにとってこのような村の訪問はまさに巡礼でした。一見何の変哲もない山の中の村、でもそこに神と神を信じる人たちがいるのですから。村の広い棚田の中にたたずんで青い空、緑の山並みを見つめた時には同じ光景でも日本では感じられないもの、即ち時空を超えて悠久の歴史の中にいる自分、即ち大きな神のみ手のなかにいる自分を実感しました。ナキヤン村の人をはじめ、山岳民族の人たちは非常に控えめで穏やかで親切です。生活は日本と比較すれば非常に質素ですが、彼らは自分たちが決して貧しいとは思っていません。衣食住充分満ち足りていると思っています。実際金持ちではありませんが、豊かに暮らしています。だから皆穏やかなのでしょうか。参加者全員一人ずつ村の家庭に8日間滞在し、村人の普段の生活と全く同じ生活を体験しましたが、全員感じたことは「何もなくても充分幸せだ」の一言でした。「便利だが人間が希薄な社会」と「自然のなかで不便だが人間が豊かな社会」のどちらが幸せでしょうか。これは一言では答えられない、またどちらかを簡単に切り捨ててはいけない質問ですが、今回の参加者特に若い青年たちがこれから生涯問い続けなければならない課題「幸せとは何か」にチャレンジした体験になったことでしょう。


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# by shukugawachurch | 2017-05-01 00:00

キリストの受難と復活

                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父




 今年の復活徹夜祭の中で16人の方が洗礼の恵みを受けられます。心よりおめでとうと申し上げます。私たち共同体の仲間が増えることは大変嬉しいことです。最後までキリストの光に照らされ、信仰を全うされるようお祈りします。

 私たちは復活祭の喜びを味わう前に四旬節を過ごします。キリストは私たちの救いのために苦しみ、十字架につけられ、いのちを犠牲にされるほど私たちを愛してくださいました。私たちはキリストを思い、心を痛めます。

 私は二年前、二回目の膵臓がんの手術を受けた時に腸閉塞になり、二回目の開腹手術を受けました。ちょうどその時、水も飲めず、もちろん何も食べられず、点滴だけで四十日を過ごしました。ちょうど四旬節と受難節の時でした。私はキリストが荒れ野に退いて、四十日四十夜、祈りと断食のうちに過ごされたことを思い起こし、これはお恵みだと思いその苦しみを受容しました。今は退院でき、生かされていることを感謝しています。

 教会も四旬節受と難節を経て復活祭の賛歌を歌い、四十日ぶりにアレルヤを力強く歌うのです。キリストは死に打ち勝って復活されました。今も復活されたキリストは、私たちとともに日々を過ごしてくださっているのです。私たちは喜びと感謝のうちに、生きておられる復活の主との出会いを体験できるのです。復活したキリストの姿は時間や空間を超えたものです。弟子たちはキリストが本当に生きているということを復活したキリストから知らされたのです。

 パウロは「キリストは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちを正しい者とするために復活させられた」と書いています。
 キリストは復活して四十日後に昇天されましたが、この世との関係を断って遠く離れたところへ行かれたのではありません。キリストは最後の晩餐で「わたしは去っていくが、また戻ってくる」と言っておられます。復活したキリストはこの世で人々とともに生活した時以上に、ずっと身近で、現実的な存在として、現在も私たちと一緒に人生を歩んでくださっているのです。




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# by shukugawachurch | 2017-04-01 00:00
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コーナン ミシェル 神父

 カトリックの聖堂はどこでも、優れた聖人が一人選ばれて、保護者となっております。たとえば東京麹町の聖イグナチオ教会は、イエズス会の有名な教会です。私たちの夙川教会は、以前は司教座でしたが、その保護聖人は若くして天に召されたフランスのリジューの幼きイエズスの聖テレジアです。

 第二バチカン公会議後、私たちの聖テレジアのご像は降ろされて長らく告解室の横に置かれました。久しぶりの聖堂でその様子を見て、聖テレジアがどんな悪いことをして降ろされるほどの罰を受けたのかと、不思議に思いました。

 最近、個人的な出会いや評議会で聖テレジアのご像について話し合い、アルコーブに戻しても良いだろうとまとまりました。聖テレジアは23歳で召された若き聖人ですから、専門家に任せて、像の右手の傷や顔などをきれいにしてもらいました。心だけでなく姿美しい女性として、ご像の聖テレジアは、私たちの捧げる祈りを聞いて受け止めて、美しいバラの花を贈ろうとしています。

 聖女として永遠の中に生きておられる聖テレジアは、私たちのために絶えず祈ってくださいます。右の手に持っておられるバラの花は、私たちの祈りを執りなしてくださった結果として神様のくださる恵みでもあります。

 皆様のくださった時間と経済的な助けのおかげで、私たちの保護者としての聖テレジアの優れた様子を再び仰ぎ見ることができるようになりました。だからこそ、私たちはより深く夙川小教区の発展を保護の聖人聖テレジアに祈り求めようではありませんか。先輩ブスケ神父が祈ったように。洗礼志願者が増えるように。今洗礼の準備をする志願者や私たちが神様の恵みによって清められるように。私たちの聖堂が聖なる巡礼地になるように。

 聖テレジア、私たちのために執りなしてください。


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# by shukugawachurch | 2017-03-01 00:00

気持ちのいい話

                                                       
ヨセフ 赤波江 豊


 ガンで入院していたある女性の信者さんを訪問した時のことです。その方は私が前回訪問した時のことを話してくれました。
 前回私がその方と話して共に祈って部屋を失礼した後で、同じ病室のお隣の女性の方が私たちの話や祈りを聴いて、「何かすごくいい気持ちになりました」と話したそうです。その病室は相部屋で、お隣とはカーテンで仕切られているだけです。普通このような部屋で話すときは隣の方の迷惑にならないように小さな声で話しますが、それでも聞こえていたのでしょう。その方も別に私たちの話を盗み聞きするつもりはなかったのでしょうけれど、静かに響いてくる声につい聴き入ってしまったのかもしれません。その時、特別なことを話した記憶はありませんが、確かこのような話をしたと思います。
 「年を重ねて病気になり、やがていつか人生の最後を迎えなければならないことは、確かに時々辛く感じるが、それは自然なことであり、人間であることの条件だ。決して倫理的に悪いことではない。私自身も体に故障が増えてきた。もちろん私たちは病気の回復を願うが、今日はもっと大切なことを神に感謝しよう。それは私たちに命が与えられ、今に至るまでこの命が守られ育まれたことを何よりも感謝しよう。その上で、もし神のみこころならもう少し健康をお与えくださいと祈ろう。あなたの今までの人生にも辛いことが何度もあったと思う。でもその度に神はあなたに生きる力と希望をお与えくださった。この神の導きにこれからも信頼しよう。そして、今日お互いにここで出会い共に祈ったことも感謝しよう。私も今日帰ったらこの出会いを日記に書いて神に感謝する。今日はプレゼント交換をしよう。目に見えるプレゼントはないが、それよりももっと素晴らしい祈りのプレゼント交換をしよう。今夜寝る前に私のために小さな祈りをささげてほしい。私も明日のミサであなたのために祈る」。
 こう話してその方の手を取って、今までの感謝と病気の回復を祈りました。そのお隣の方はどんな病気で入院していたのかは知りませんが、きっと心の底で何かの救いを求めていたのでしょう。カーテンの向こうから静かに響いてくる声に耳を傾けながら、自分が求めていたものに出会ったのかもしれません。私はその日、信者さんとだけ祈りのプレゼント交換をしたつもりでしたが、私たちは知らない間にその方にもプレゼントを贈ったようでした。そしてそのプレゼントを受けて「何かすごくいい気持ちになりました」と話した後、「あの男性の方って神父さんですか?」と尋ねたそうです。私自身もそれを聞いて「何かすごくいい気持ちになりました……」。
 2月11日は「世界病者の日」です。





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# by shukugawachurch | 2017-02-01 00:00