カトリック夙川教会月報 巻頭言


by shukugawachurch
                                                       
ペトロ 梅原 彰 神父


 1月1日は神の母聖マリアの祭日です。マリアを神の母と呼ぶのは、イエス・キリストには神性と人性が合体し、交わりあっているからです。神性と人性が一致合体しての人格(ペルソナ)なのです。マリアが生んだのは、神としてのペルソナを持ったキリストです。これがマリアを神の母と呼ぶことのできる理由です。
 神はマリアを通して人間性をとられ(ご托身・受肉)、その人間性は懐妊の瞬間、神の子のペルソナに一致されたのであり、その結果、マリアから誕生したイエス・キリストは神の子のペルソナの真の誕生と言えるのです。
 教会はエフェゾ公会議(431年)を開いて、マリアが神の母であることを信仰箇条として宣言しました。その時以来、マリアが神の母であるという信仰は否定されることなく、信者の心に生き続けてきたのです。私たちはこのような素晴らしい神の母に守られて、信仰の道を力強く歩むことができるのです。大天使ガブリエルから神の母になるという知らせを受けた場面は、フラ・アンジェリコやレオナルド・ダビンチなどの画家によって描かれていますが、皆さんも見たことがあると思います。
 アヴェ・マリアの美しい音楽は私たちの心を清めてくれます。マリアの生涯を思う時、まずこの受胎告知、神のお告げの場面を思いだします。ルカ1章26~38節に詳しく書かれています。マリアが神の子の母に選ばれたという驚くべきメッセージが告げられた時、マリアが戸惑ったのもよくわかります。しかしマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。マリアは大天使の言葉に驚いたことでしょう。どうしてそんなことが? 私はまだ結婚もしていないし、力も経験もない私に何ができるのでしょうか。そのような思い、悩み、戸惑いがマリアの心に迫ってきたことでしょう。しかし、マリアは大天使と言葉を交わしている間にはっきりと悟ったのです。自分にとっては苦しい道になるかもしれないけれど、これは神が私に託される使命である、と。マリアには、神からの語りかけがはっきりとわかったのです。大天使が答えたように、神におできにならないことは何もない。神が私を選んでくださったのなら、私はそれに応えるほかない、と。こうして20歳にもならないマリアが、キリストの母、神の母となられたのです。
 マリアの生涯は数々の悲しみや苦しみを経験して、神に仕える者となられたのです。私たちも、このマリアの強い信仰と愛による奉仕の生き方を学び、マリアを仰ぎ見ながら、この一年をマリアとともに歩んでいきましょう。






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# by shukugawachurch | 2017-01-01 00:00
                                                       
コーナン・ミシェル神父


 日本では、キリスト者がまだとても少ないのに、クリスマスを私たちとともに喜ぶ人がとても多いですね。夙川教会にもごミサに参加する人が溢れかえるようで、とてもありがたいことです。お祝いの雰囲気を味わいたいと思ってこられるのでしょう。

 その人たちをよく迎えられるように、担当者は美しい馬小屋を作ったり、オルガニストと聖歌隊は長い練習に励んだり、侍者の子供たちは役割を覚えたりして、皆の協力で、救い主の誕生を準備するのです。街のクリスマスの華やかさとは違った、静かな救い主の誕生の喜びが、クリスマスキャロルの歌声の中伝わることを願っています。

 さて、この聖堂を建てたシルヴァン・ブスケ主任司祭は、聖人になったばかりの幼きイエズスの聖テレジアのメッセージを熱心に伝えたり、聖テレジアに関する本を書いたりして、夙川の聖堂を聖テレジアに捧げました。そして1943年、深い信仰を表して、日本の教会の殉教者となりました。

 久しぶりに大きな祭壇の後ろのアルコーブに戻ってくるはずの夙川教会の幼きイエズスの聖テレジアは、私たちの準備をご覧になって、きっと喜んでくださっているに違いありません。聖テレジアは、ブスケ神父と同じ宣教師の心でひとりでも多くの人がイエズス様のもとに来ることを執り成してくださるからです。
 
 聖テレジアは私たちにこう語りかけています。「あなた方は、ひとり残らず、私たちの救い主イエズスさまから大事にされています。感謝して喜んで生きなさい。いけないことをしても(ゆるしの秘跡を忘れなしでね!)。あなたは、かわいい大切な存在なのですよ。」

 信仰の恵みをいただいた私たちは身近な人々に「一人ひとりが愛され、この世に生きている」ありがたさを伝えられるような、優しさと温かさを持って、クリスマスを迎えたいと祈っています。






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# by shukugawachurch | 2016-12-01 00:00

ポイントカード

                                                       
ヨセフ 赤波江 豊 神父


 私たちの身近な生活にポイント制というのがあります。例えばある特定の商店で買い物をしたり、施設を利用したりするとポイントカードにポイントをつけてくれて、それがある程度貯まるとそれで買い物ができたり、施設を無料で利用できる制度です。私も財布の中に何枚かポイントカードを持っていますが、やはりポイントが貯まるのは嬉しいものですね。またポイントは知らないうちに貯まっていることがあり、時々店員さんから「お客様ずいぶんポイントが貯まっていますよ」と言われて思わず嬉しくなったことが何度かあります。
 神様もきっと私たちが洗礼を受けた時、私たち一人一人のために天国に「愛のポイントカード」を作ってくれたと思うのですね。確かに私たちは知らず知らずのうちに罪を重ねてしまいます。でも、同時に知らず知らずのうちに善いこともしているのですね。困った人にそっと差しのべた手、悲しむ人と共に流した一滴の涙、落ち込んだ人にかけた小さな励ましの言葉など。でもこのようなことは多くの場合当然のことをしただけで善いことをしたという意識はないし、忘れてしまっていることが多いのですね。でも神様は私たちが忘れてしまった小さな愛の数々にこそしっかりと目を留め、忘れずに愛のポイントをつけてくださっているのですよ。確かに私たちは多くの罪を重ね、ゆるしの秘跡でも忘れてしまった罪のゆるしを願います。しかし、もし神様が私たちの罪ばかりに目を留めておられるのなら、それは私たちの神様ではありません。愛である神様(一ヨハネ 4・7~8)はご自分の似姿として私たち人間を作られました(創世記 1・27)。それならばその神様が私たちの善いところにまず目を留めてくださらないはずがないでしょう。だいたい善には自意識というものがないのですね。自分で善いと思ってしていることにはどこか自己満足があるのではないでしょうか。
 イエスは十字架上で亡くなる前、ご自分を苦しめた人たちの赦しを父なる神に願って「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ 23・34)と祈りました。でも同時に私たちのためにも「父よ、彼らを見捨てないでください。彼らは自分たちがしている小さな愛の業の偉大さを知らないのです」と父なる神に永遠に祈り続けておられると思います。
 今月は諸聖人の月です。私たちは洗礼の時、天国の友人としての聖人の名前、洗礼名をいただきました。きっとその聖人たちは神様と一緒に、私たちが忘れてしまった無数の小さな愛の数々にポイントをつける作業を手伝っているのでしょうね。そして私たちがいつかこの世の務めが終わった時、天使から「君ずいぶんポイントが貯まっているよ」と言われて皆さんの顔が思わず微笑みに満ち溢れることを願っています。




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# by shukugawachurch | 2016-11-01 00:00
                                                       
コーナン・ミシェル 神父


 先日、プロテスタントの信者の祈りに誘われてともに祈る喜びを味わいました。フランシスコ教皇様が、第2バチカン公会議が目指す教会一致のために、活発に行動されていることは、ニュースでご存じでしょう? バチカンにカトリックでない聖職者が訪れたり、また、教皇様が、東方教会を訪れて式にもお出になったりしています。カトリック、東方教会、プロテスタント、同じ主イエズスへの信仰を持つ者として、お互いに尊重し合って、一緒に祈ることは、今の時代、特に必要になってきました。

 あるプロテスタントの友人が、夙川教会に入ってきて、不思議な印象を受けたそうです。古い祭壇の頭に小さな十字架、そして金の十字架が置かれていて、その奥のアルコーブ(壁面に作られた窪んだ空間で、彫刻など美術品を置くのに用いる)にまた、十字架。何か不自然な印象を受けるのはどういうことか?と。

 それは、こういう事情からでした。第2バチカン公会議後、古い祭壇を使ってのミサではなく、信者の方に向かって呼びかける今の祭壇が設けられ、プロテスタントが〈聖人〉に対する崇敬を理解しにくいことを考慮して、禁令ではなかったものの、中央に聖人を配置することを避ける傾向があり、夙川教会でも、聖テレジアのご像が降ろされたそうです。ですから、時代の流れとともに、もともとのあるべき形ではなくなっていったのです。

 このような配慮が本当の一致を生むでしょうか? 私は、そのようなことから一致は生まれないと思っています。1967年、私が、夙川教会に赴任した時、聖テレジアのご像が、アルコーブにあるのを見て、とても誇らしく感じました。リジューのカルメル会にたびたび祈りに行き、聖テレジアの福音宣教への熱意を心に刻んでいたからです。今、プロテスタントの信者が聖テレジアのご像をアルコーブに見ても、嫌悪感を持つ人はいないのではないでしょうか? 聖テレジアを知っているかもしれません。また、聖人の優れた心を紹介できるかもしれません。保護の聖人とか、目に見えない守護の天使とか、カトリックの信仰を紹介できるかもしれません。ですから、安全性を厳しく確認してからですが、聖テレジアのご像を元のアルコーブに戻すことを検討してみては、とあえて私は提案してみたいと思います。

 今年、大先輩ブスケ神父様の生誕地や聖テレジアの修道院への巡礼が計画されているそうです。聖テレジアのご像がアルコーブに戻ってきて私たちが祈りを捧げる時、ブスケ神父様が、彼女の霊性に感化され、夙川教会を建てる折に捧げた祈りと犠牲、描いていた教会のもともとの姿、そして時代の波に呑み込まれ殉教者になっていったことに、私たち自身がより近づいてゆけるのではないでしょうか?

幼きイエズスの聖テレジア、私たちのためにお祈りください。


聖堂正面のアルコーブにおかれたテレジア像
(この写真は1979年以前に撮影されたもので、記録保存班からご提供いただきました。)
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# by shukugawachurch | 2016-09-01 00:00

子スズメの話

                                                       
ヨセフ 赤波江 豊 神父

 スズメは昔から人間との結びつきが深い鳥で、世界中、人間が生活する所には必ずいる鳥である。福音書にも登場する(マタイ10章29節、ルカ12章6節)。
 スズメはよく見ると、かわいい小鳥である。以前、司祭館の前にスズメの餌場を作っていたこともあるが、よく大挙して来ていた。親子連れもよく見かけた。親の前で全身をぶるぶる震わせながら、口を開けて餌をねだっているのが子スズメである。
 以前、初夏の頃だったと思うが、ある緑地公園の木陰に車を止めて休憩していた時のことである。さわやかな天気で、あたりには小鳥のにぎやかな声が響いていた。しかし、やけに間近で鳴いているなと思っていたら、何と子スズメが開いていた車の窓から入り込んで、隣の座席でピーピー鳴いている。
 どうしてここに子スズメがいるのか。何か間違えて入り込んだのだろう。すぐ出ていくと思っていたが、なかなか出ていかない。捕まえてそっと窓際に置くのだが、またすぐに入ってくる。2、3回そういうことを繰り返した。どうやら親と離れてしまったらしい。くちばしがまだ黄色くて、自分でまだ餌をとることができないのだろう。
 様子からして何か餌をねだっているような、助けてくれと言っているような…。もともと小鳥は好きで、子どもの頃はよく飼っていた。でも、今は忙しくて面倒は見てやれない。誰か他の人に面倒見てもらいな、と言うのだが、相変わらず出ていこうとせず鳴いている。このまま外に放り出して、誰かいい人が拾ってくれたらいいが、カラスか猫の餌食になるかもしれない。お前の気持ちはわかるけど、私は忙しくて面倒見てやれないのだよ、頼むから誰か他の人のところへ行ってくれ、と言うのだが、相手はますます激しく鳴く(泣く)ばかり。ダメだと言ったらダメだ。私は天の御父じゃないから、スズメの面倒なんか見てられないのだよ(マタイ6章26節参照)。私も困り果ててしまった。かなり長い間、黙って見ていたが、そこまで泣かれたら仕方がない。窓を閉めて、車のアクセルを踏んだ。行先は小鳥屋。幸いすぐ見つかった。
 鳥カゴと餌を買って、主人にわけを話すと、「子スズメはかわいいですな。よう慣れますわ」と言う。確かにかわいいけど、何で自分がこんなことをしなければならないのかと思うと、情けないような気持ちになる。相手はと言えば、人の気持ちも知らないで、養ってもらえることが分かって安心したのか、急に静かになった。
 親からはぐれたのか、親が死んだのか知らないが、独りぼっちになったら人間に養ってもらえと、誰が教えたのだろう。親か神様か、それともスズメの本能なのか。
 スズメは成鳥になると人には決して慣れないが、小さいうちから育てると大変よく人に慣れる。一日に数回、餌をお湯で柔らかくして口に入れてやるとよく食べる。外出して部屋に戻ると、大変な喜びようで、やかましいくらいに鳴く。しばらく部屋で飼っていたが、やはりどうしても忙しくて飼えないので、親のところへ持って行って飼ってもらった。
 その後、スズメはくちばしの黄色いのもとれて、羽も生え変わり、すっかり大きくなった。家の中を飛びまわったり、食事のとき、母のご飯を横取りしたり、頭をつついたりして、かわいさも絶頂に達した頃、突然死んだ。何とも悲しかったが、これも天の御父の命令なのだろう。
 時々、外でスズメを見ると、あの子スズメのことを思い出す。神様がまたいつかあのようなかわいい子スズメに出会わせてくださらないかと願っている。

我と来て 遊べや親の ないすずめ  小林 一茶




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# by shukugawachurch | 2016-07-01 00:00